姫路市のお隣、太子町にある斑鳩寺(いかるがでら)
“いかるが”なんて奈良か飛鳥でしか聞いたことないし
これ絶対、聖徳太子がらみじゃーんと軽い気持ちで行ってみたら
そのものズバリだったの
ビックリしたなー
太子町の太子って聖徳太子の太子からきてるんです!
斑鳩寺(いかるがでら)
ちょいと怪我しちゃまずい時期なので最近は山行をあきらめ
休日はもっぱら近隣のドライブかウォーキング
今日はどこに行くかなーと姫路の近隣を探していたら
お隣の太子町に斑鳩寺(いかるがでら)を見つけました
斑鳩って絶対に聖徳太子がらみじゃーん
姫路からは10㎞かそこらだし行ってみよー!

というわけで到着しました斑鳩寺
立派な仁王門っすなあ
僕は仁王様(金剛力士像)が大好きでね
境内に入る前にまずは仁王様から拝見しましょう

阿!と口を開けた仁王様!!
これ、なんで横から撮った写真を使うかっていうと、斑鳩寺の仁王様は横から見た方が格好よかったから
正面から見ると体がやや細め、お顔も大きめでファニーだったのよ

仁王様 吽!格好いい!
仁王様のお顔が大きいのは良いの
あれは下から見上げた時の迫力を出すためだからね
でもそのためにはサイズ感が必要
正面からの体の線が細いとちょっとね
なので横からの写真ってわけ
今の時代は盛るのが大事だからさ
でも加工はしてないでw

さてここからちょいマジな太子町の斑鳩寺(いかるがでら)のお話
興味のある人は看板を見ていただくとしてザックリと解説をしていきます
まず、看板に書かれている法隆寺領鵤荘は、「ほうりゅうじりょういかるがしょう」と読みます
「鵤」は一字で「いかるが」、「荘」は荘園の荘
これが分かってると頭にスイスイ入る
では看板の中身と補足を
600年頃のお話
聖徳太子が推古天皇に法華経を講じたところ、感じ入った推古天皇は「あなたはすごい、田んぼいっぱいあげるわ」と聖徳太子に播磨の水田を贈ったそうで、聖徳太子はこれを法隆寺に寄進し、後にその水田は法隆寺領鵤荘となったということです。
その後、伝承では聖徳太子が移り住んだとなっていますがこれはあくまで伝承の範囲かな?
そして法隆寺所領の荘園にお寺が建ち(法隆寺は当時、斑鳩寺と呼ばれていたご縁から)今回ご紹介するこちらのお寺は法隆寺別院斑鳩寺となりました。江戸以降は天台宗に改宗したらしいけどね。
いやーそれにしても姫路に居て聖徳太子に関わる建物を見られるなんて素晴らしいじゃないか。だって、山口県のように都から遠いところに住んでいると奈良・飛鳥時代に触れ合う機会が滅多にないからさー。都に近い場所だと、ちょっと走るだけで歴史的に面白いものがいっぱいあるのが嬉しいわ。

境内に入って江戸初期の斑鳩寺境内図をみつけました。斑鳩寺は1541年出雲の尼子氏によりいったん灰燼に帰しましたが、龍野城主赤松下野守政秀らの寄進により再興。
上記、江戸初期の境内図(再興後のもの)からは、その後もたくさんの坊庵が建っていたことがうかがえます。

仁王門をくぐって最初に目を引くのは、右手にそびえる三重塔
斑鳩寺の三重塔は永禄八年(1565)、赤松下野守政秀の再建による国指定重要文化財とのこと
斑鳩寺にある伽藍のうち、尼子の侵攻による伽藍焼失後の再建では最も古いものらしいです
ちょうど入口近くの弥勒堂に坊守さんがいらしたのでお話を伺いました。
立:三重塔、この古な感じが良いですね
坊:塗り替えしてはいるんですけれどもねえ
立:え?あれ?そうなんすか
坊:最近は国も県も予算をつけてくれなくて…
立:あ、そういう意味なんすね?
いやこれまじでマジっすか案件だよ。
これ国指定重要文化財なんです
今を生きる人間に手当を厚くするのはもちろん大事なことで
そんなことは誰でも分かってますが
自分がどこから来たのかという
根っこのところを軽んじて”何が日本人”なんだよ。
つーわけで政府に物申ーす!(エガちゃん風)
意味の分からん手当てするくらいならもっと重文に金出さんかーい!
あとみゃみやたらと増税すんのやめろ!
と心に思いながら坊守さんにお礼を言って次へ

こちら聖徳太子の髪が植えられていたという聖徳院。
残念ながらこちらも尼子氏の侵攻で焼失し1551年の再建。
お金はでてないけどこれも県重文です。
この聖徳院は正面から見てふーんくらいにしか思わなかったのですが、中殿、後殿の継ぎ足しの感じが格好いいんだわ。
中殿、後殿は後から出てきます。

次は斑鳩寺講堂。仁王門の正面にあってみんながお参りするからメインぽいっけど、講堂はお坊さんが修行したり経典について議論する場なのであまり興味がなく写真はこの一枚だけ。
ところが後から調べたらこの講堂の中に国指定の重要文化財、如来像があるらしいんだよ。秘仏で2月23日・24日でなけりゃ御開帳されないらしい。
こういうの大事なんだからな!
ちゃんと守れよ日本政府!
ちがうか文科省!
次は斑鳩寺の鐘楼

斑鳩寺鐘楼は1541年焼失・1572年赤松広英にて再興との記録
銅鐘自体は但馬から移された鐘が永正11(1514)年に破損したため、元禄6(1693)年に再鋳したとされててるようです
1514~1693って室町から江戸だよ
やっぱ金属(銅)ってすげーな
新日鉄も守れよ、日本!

ぐるっと裏に回ってみた。


これ、前半に言ってた聖徳院の後殿
八角形の後殿はもしかしたら法隆寺の模倣かもしれないね

聖徳院の後殿・中殿・前殿をぎりぎりiPhoneで収めたんだけど全体が写らない
こういうのは現地に行かないと規模感わかんないかもね
なんかさー古いお寺はこういう伽藍が建て増しだったり廊下でつながってるのが素敵じゃない?
回廊っぽいのが気持ち良くてずっと見てられる
太子町の太子は聖徳太子の太子!
さーて今日の〆 太子町の太子は聖徳太子の太子!
姫路近辺のお勧めスポットを探してたら斑鳩寺を見つけて「”いかるが”って絶対に聖徳太子がらみじゃーん」と思って行ってみたらマジ聖徳太子がらみで、それどころか斑鳩寺のある太子町の”太子”って聖徳太子の”太子”だった!ってわけでマジビックリくりくりクリックリ!の僕です
地名の由来を知ると、千何百年前の聖徳太子と土地と建物と自分がリンクしたような”ふわ~”とした気分になります
これだから歴史探訪はやめられない
んで、今日の最後に一つ謎を

伽藍を見て回ってるときに随所にこの花の文様があったんです
聖徳太子に関わるものだと思って、最後に坊守さんに聞いたんだけどなんだったか忘れちゃったんだよなー
聖徳太子のお印的なものだと思うんだけど分かる?
だれか教えて!!!