【兵庫県】柳田國男の生家

【兵庫県】柳田國男の生家

柳田國男と言えば民俗学者、いや日本民俗学の始祖にして「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげる先生も憧れたという妖怪研究の第一人者なのであります。
柳田國男の有名な著書と言えば「遠野物語」とか「妖怪談義」とか。

その柳田國男の生家が兵庫県福崎町にあるというので行ってきました。
姫路の北20㎞くらいです。

柳田國男の生家

まずは柳田國男の生涯をWikipediaから要約してみます。

柳田國男の生家
柳田國男の生家

柳田國男
1875年(明治8年)飾磨県神東郡辻川村(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれ。
兄の薦めで森鷗外や、文学を通じて国木田独歩、島崎藤村らと親交を持つ。
東京大学法学部政治学科卒業後、農商務省に入り主に東北地方の農村の実態を調査研究するようになる。
高級官僚として世に打って出てからは新渡戸稲造とも親交を深める。
日本に戻って後は民間伝承にのめり込み幾多の名著を残す。

世に聞いた名前ばかりが出てくる。凄いなあ。
ちなみに森鷗外は晩年津和野に住んでましたし国木田独歩は山高出身だったり、新渡戸稲造の武士道は僕は大好きだし、なにかこう親近感を感じる方です。

柳田國男の生家に入る
柳田國男の生家に入る

Wikiにはありませんが柳田國男は思想家でもありまして、大正期の普通選挙の実現と農村青年の教育改革にも論説をふるっていた方です。民俗学においては「歴史書に書かれた事柄よりも地方の伝承が大事」とした柳田の手法が評価されていますが、柳田自身は東北で地方の実情を見て「今の民衆の声こそ大事」と考えていたふしがあります。
今の中央官僚さん達に聞かせたい言葉です。

柳田國男の生家の土間
柳田國男の生家の土間

さて、柳田國男の生家。柳田國男の生家は県指定文化財になっていますが家の中まで入れます。
注.座敷には上がれません

柳田はこの家を「日本一小さい家」と言い「故郷七十年」の中で「この家の小さいという運命から私の民俗学への志も源を発したと言って良い」と語ったとのこと。

私が見た感じ柳田國男の生家はそれほど小さくもなく土間も納戸もある昔の農家にありがちな田の字の家でした。しかし、ここに両親と男ばかりの八人兄弟に長男嫁も居たこと。加えて長男嫁と姑の確執もあったと聞けば家庭内の喧騒が幼い國男にはさぞかし窮屈であったろうことは想像に難くありません。

そんな國男は11歳の時に辻川の旧家三木家に預けられ、12歳で長男(離婚済み)の鼎に引き取られ茨城へ、16歳になると三兄の井上通泰と東京で同居と、流れ流れの人生を過ごすことになります。そうした時代を過ごした國男の「日本一小さい家」という言葉には、物質的な意味と、家庭への畏怖に加え、望郷の念もあるのかもしれないと考えるのはおセンチに過ぎるでしょうか。

あ、そうだ。ここまでずっと柳田で通してきましたが柳田國男の旧姓は松岡です(明治34年に大審院判事の柳田直平に養嗣子入りして柳田姓となる)。柳田國男は松岡家八兄弟の六男で兄も弟も皆優秀。それぞれが上京しひとかどの人物となっています。
そうしたことから柳田國男の生家の周りには、松岡家の「学問のみち」なんてのが用意されています。

辻川山公園の話に移る前に柳田國男の生家の周りのいくつかの建物も載せておきましょう。

神崎町立柳田國男・松岡家記念館
神崎町立柳田國男・松岡家記念館

柳田國男の生家の奥にある記念館。柳田國男に限らず、松岡兄弟の活躍の記録を目にすることができます。

県指定文化財 旧神崎郡役所
県指定文化財 旧神崎郡役所

記念館の奥にある旧神崎郡役所。こちらは明治19年建造、昭和57年に移設されたもの。ギリシャ様式が美しい。

鈴ノ森神社
鈴ノ森神社

山桃の木がある鈴ノ森神社。松岡兄弟が残した歌には山桃が多く詠まれているので彼らが幼いころから遊んでいた場所と思われます。

かるく〆め

今日は日本民俗学の始祖にして妖怪研究の第一人者、柳田國男の生家を見てきました。

実は僕の友人のお父さんが民俗学者でね。

齢はとっくに90過ぎてて教壇は降りられたけれどもいまだ蔵書はすごいしなんたって話が面白い。

山歩きも好きで、家によれば「まあコーヒーでも飲んでいけ」となかなかのダンディガイなの。

柳田國男も周りに恵まれただけでなくさぞかし面白爺さんだったろうなあと思った日なのでした。

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