吉備津神社を堪能した後、総社市の鬼ノ城へ行ってきました。鬼ノ城は「おにのしろ」ではなく「きのじょう」と読みます。
桃太郎伝説とどう絡んでくるのか楽しみだなあ。
鬼ノ城

鬼ノ城は吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山に築かれた壮大な古代山城です。
歴史的にみる鬼ノ城
鬼ノ城にはビジターセンターがありまして鬼ノ城の歴史について学ぶことができます。いや「鬼ノ城の歴史が不明なことについて知ることができます」が正しい表現かも。

古代山城とは7世紀の後半、西日本各地に築かれた防衛施設で、山頂あるいは山麓にかけて土塁や石垣による城壁で囲まれているものです。
663年、白村江の戦いにおいて唐・新羅軍に敗れた倭は、665年から667年にかけて国土防衛のために大野城など朝鮮式山城を築いたと記録が残されており、鬼ノ城もその一つと考えられていますが、まったく記録に残されていないため築城時期が不明な謎の城なのです。
ここで注目したいのは右下にある古代山城の分類。古代山城は朝鮮式山城と神籠石系山城に分かれるようです。

神籠石系山城については「文献に記載されていない山城を神籠石系山城としその立地や切石か割石かの違いなどで九州型と瀬戸内型に分かれる」と書かれていまして、別の看板には瀬戸内型に山口県田布施町の石城山の名前も挙がっていました。
神籠石、聞いたことあると思ったよー。
また山でつながった。
鬼ノ城一周
鬼ノ城は一周2.8km。そこそこ奇麗に整地されているので革靴でも1時間程度で回れます。

今、写真上の鬼ノ城ビジターセンターに居ます。ここから西門、水門、南門、東門、北門と回っていきます。
サクッと写真を中心に参りましょう。

復元整備された角楼がある西門。建屋よりも石垣に注目です。
一度降りてみます。


西門をくぐったら、敷石に沿って南門へと参りましょう。


景色に見惚れて歩いていると水門を見逃したことに気が付きました。
下の道に降りて第2水門(だったか第1水門だったか)を拝見。

田布施町の石城山もそうですが古代山城には水門があるんですよね。
水を上手に逃がさないと岩が崩れちゃうのかな。



内側列石の傍には千手観音様もいらっしゃいました。奇麗に残っているので近世のものでしょう。


少し下って東門、登りなおして屏風折れの石垣近く。
屏風折れの石垣には人が写っているので割愛します。

東門から北門の間にもいくつか遺構がありますが今一わかりづらかったので割愛。
北門からは結構な距離を歩き、西門に到着です。

革靴でも歩けると書きましたが、運動靴か登山靴の方が歩きやすいのは間違いありません。
桃太郎伝説
岡山には桃太郎と鬼のモデルになったといわれる「吉備津彦命と温羅」の物語「温羅伝説」があります。
今回歩いた鬼ノ城には温羅と呼ばれる鬼が棲んでいたそうです。
温羅伝説

その昔、吉備と呼ばれた岡山では温羅と呼ばれる鬼が鬼ノ城をすみかに暴れまわり、村人を苦してめていました。そこで、大和朝廷の王は、吉備津彦命に温羅を退治するように言いました。
吉備津彦命は「吉備の中山」に陣を構え、巨石の盾を築き守りを固め、得意の弓矢で攻撃します。一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。互いの矢がぶつかり合う激しい戦いでした。戦いの末、傷を負った温羅は恋に化けて逃げますが、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえて見事に退治しました。
記紀によれば吉備津彦命は第十代崇神天皇の時代に将軍として吉備国に下り温羅一族を滅ぼし一帯を平定された方。一方、鬼ノ城の築城は660年半ばと推定されてますからずいぶんと時代に隔たりがあるようにも感じます。
まあ伝説とはそういうものか。
昔話の桃太郎
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました
ある日、おばあさんが川に洗濯にいくと
大きな桃が川上からドンブラコドンブラコと流れてきました
桃を持ちかえって割ってみると中から男の子が現れました
その子は「桃から生まれた桃太郎」と名付けられ大切に育てられました
やがて成長した桃太郎は悪さをする鬼を退治に出かけます
鬼ヶ島に向かう途中、きびだんごを与えて猿・雉・犬に仲間にします
仲間とともに見事鬼を退治した桃太郎は宝を手に入れて帰りましたとさ
めでたしめでたし
「桃太郎の家来がなぜ猿・雉・犬なのか」という問いに対し「鬼門とされる北東(丑寅)の反対が申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)だから」というまことしやかな回答をよくみかけます。一見納得してしまいそうですが、それなら巳(へび)も午(うま)も未(ひつじ)も仲間に入れてあげなよと。
伝説に都市伝説をかぶせるのはやめましょう。
未(ひつじ)の立場がなくなるじゃん。

岡山には大きな前方後円墳もあるんですね。
また遊びに行こうっと。