8月22日、下関市の四王司山から勝山を縦走してきました。四王司山の登山口は勝山御殿跡にありまして、この勝山御殿跡があまりに素晴らしかったのでまずはここからご紹介したいと思います。
勝山御殿跡
勝山御殿跡という名称はカーナビに登録されていると思いますので、それに従えば問題なく到着します。
大きな道からの曲がり角には「勝山地区公園」と標識があります。
曲がった先の住宅街を奥へ奥へと突き当りまで進みますと勝山御殿跡に到着します。
こちらは公園として整備されていますので駐車場もトイレも自販機もあります。
登山口としては抜群の環境です。
先ほどの階段を上りますと勝山御殿の城壁を間近に見ることが出来ます。
残念ながら建物は明治6年(1873年)に解体されたとのことですが、ここまで立派な近世最終期の城壁を目にすることは滅多にありません。
僕自身こんなのあるって知りませんでしたもの。
勝山御殿跡は必見です。
勝山御殿跡の説明看板を書き起こしておきましょう。
1863年(文久3年)風雲急を告げる幕末、関門海峡において外国船との間に戦いが起こる。
平成12年(2000年)3月 ふるさと勝山のあすをつくる会
当時の長府藩主毛利元周は、海岸に近い串崎城(県立豊浦高校東側)が危険なため急拠この地に城(勝山御殿)を起工する。わずか7ヵ月で完成。スピード築城の記録となっている。
今も残る石垣や石畳は、御座の門、大書院室、御寝所など60余りの部屋を持つ御殿があったことを忍ばせるに十分な威容を残している。
ほう。あの時代か。1863年と言えば長州急進派のアメリカ商船ペンブローク号への砲撃(勝ち)です。これが翌年の四国艦隊下関砲撃事件(負け)に繋がっていきます。いわゆる下関戦争ってやつですね。
このとき連合軍との講和に立ち向かったのが高杉晋作でして、そのあたりの経緯は別のブログに書いたことがありますので、もしも興味のある方がいらっしゃればこちらをどうぞ。
http://ootoshishokokai.blog86.fc2.com/blog-entry-175.html
勝山御殿跡は、2018年に文化審議会入りし「幕末期の緊迫した軍事状況や当時の築城技術を知る上で貴重」な史料であるとして、2019年2月正式に史跡として指定されたとのこと。
わりと最近の話なので垂れ幕もまだ綺麗でした。
大書院があったとされる場所は軽くソフトボールが2面できるくらいの広場です。いやもっとあったかな。
大書院の広場の奥が本丸のあったところですが、何か意味ありげな岩が立っていました。何も書かれていなかったので何の岩か分かりません。
ランドマークを見つけるとなんでも見に行く僕です(笑)
四王司山登山
四王司山登山口は本丸の一番奥左手にありました。
四王司山の登山道、取りつきは極めて緩く最初の階段を上った後は、林の中を散歩するように歩いてゆけます。
道はよく、市民の散歩コースになっているのか、上りでは3組のご夫婦とすれ違いました。皆さん軽装でポールを手に歩いていらっしゃいました。
上りのコースの途中に鳥居を見つけました。文政六年 田倉村氏子中となっていますので古いもののようです。
一礼してくぐります。
平たい石があり登山道が迂回していました。
この辺りには意味ありげにスパッと切られた平たい石が転がっており、四王司山も中世山城のためその名残なのかなあと想像力をそそられました。
岩場を超えて段を上ると鉄塔の建てられた広場に出ました。
上から陽の入る林に遮られこれまで景色はほとんどなかったのですが、ここからは長府の町を眺めることができます。
それにしても全く風のない日です。湿度が高くズボンにまでじんわりと汗が滲んできているのに気が付きました。
そう言えば、ここまで調子よく登ってきたために休憩を取っていませんでした。塩飴とお茶をいただくことにしましょう。
いつも感心するのですが、こういう鉄塔ってどうやって建てたのでしょう。基礎も大変だろうし、コンクリートも、鉄柱も、人力で持って上がるなんて考えられないし。
後世の人間が見たらピラミッド並みに不思議に思うんじゃないでしょうか?
先ほどの鉄塔からわずかに上ると稜線に出ました。緩いとはいえここまではほぼ直登だったためにほっと一息です。
まあ、まだ右手上方に山が見えるのですが。四王司山は初めて登るのであとどのくらいの距離でどのくらいの角度があるのか想像がつきません。
と思っていたら八合目の看板がありました。もうすぐかなあと密かに期待していたのですが、甘かったようです。
四王司山は392mなのであと80m程度は登らなければいけませんね。
なんで急に八合目だけ教えてくれるんでしょう。
途中も教えてくれれば良いのにさ(*´з`)
まあ、でも、一歩一歩進んでいけば頂上に近づいていくものです。
僕の記憶が確かなら、ここは頂上かなと思わせて1つ前の坂。
四王司山山頂
先ほどの坂を上りきって左に折れ、最後の坂を上ると上記の道標が現れます。
ほんの小さな分かれ道です。
その上に看板があります。書き写しておきましょう。
四王司山(392m)の歴史
平成15年3月 勝山三山を守る会
清和天皇の貞観9年(867)、新羅調伏のため、地勢高く賊境を見渡すこの山に長門国司が四王院を建立し、朝廷から下された四天王像を祀ったと伝わる。
中世 この山で大内・厚東両氏の抗争がくり返された。正平○○年(135○)厚東○○が四王司山で大内弘世に敗れ○○した。
正平13年(1358)防長を統一した大内弘世が厚東義武に代わって長州守護職に任じられた。
九州に逃れていた義武は、翌正平14年(1359)四王司山に拠って再び挙兵したが、敗れ、九州に逃れた。
現在、山頂には四王寺神社の祠に毘沙門天が祭られ、正月の○初寅まいり○は賑わう。山頂の東端にある展望台に立てば、瀬戸内の眺めが素晴らしい。
では山城・郭・毘沙門堂跡があるという三角点方向へ参りましょう。
頭を下げて、二の鳥居をくぐります。
ちょっと草がひどいけど行かなきゃね。
道の左手小山にポツンと四王司山の三角点がありました。三等三角点ですね。
ここからの眺望はまったくありません。やぶ蚊がやばいです。
早々に三角点を離れて、山城・郭・毘沙門堂跡を探しましたが、さして見るべきところもなし。
二の鳥居まで戻って奥を目指しました。
四王司神社様
こんな山の上に、なんという立派な神社様でしょう。見るとお宮さんの正面には参道の石段もありました。別の登り口があるんですね。
由緒沿革を拝読すると「清和天皇の頃に夷敵降伏国土安穏を祈願し毘沙門天の尊像を奉安された」とあります。
毘沙門天と言えば荒々しい武神、北方の守護神のイメージがあります。
清和天皇は平安時代のお方ですので、島根に4体、山口に1体、北方守護神を奉安されたということは、夷敵とは海を渡ってくる者を指すのかもしれませんね。
さらに四王司神社由緒沿革を読み進めますと、毘沙門天の「威徳は七福神の一柱とし病難・奇難を療治しめ家内安全、交通災害厄除、商売繁盛、学業成就、福徳円満等の所願成就」とあります。
そうか。毘沙門様といえば、七福神でもありました。
これはお参りせねば。
お参りの前に汗をかいた手を清めようと周りを見ると、お社の左手に井戸がありました。
なんとこの井戸、生きてるんです!
ポンプを押し、井戸水に手拭いを浸して、手だけでなく顔や頭も清めさせていただきました。冷たい水が気持ちいい!
そのあとしっかりと四王司神社にお参りさせていただきましたよ。
お参り後に手水に気が付いたのですが、手水の向こうの木のうろになにやら像が。槍に甲冑。可愛らしい毘沙門様です。
四王司山展望所
四王司神社様の右手から展望所へ行けます。
おお!なんと!参拝者用でしょうか四王司神社様のお近くにはトイレも設置されていました。
神様のお話の後で不浄ではありますが、登りの途中からちょっとお腹がまずいなあと思っていましたので、これ幸いとお借りすることに。
こんな山の中の掘っ立て小屋なのに匂いがない。蚊がいない。ハエもいない。トイレットペーパーがある。足元も綺麗。びっくりです。
勝山まで回るとなると、キジ打ちかなあと考えていたので、これは本当に感動的でした。
お腹もすっきりと稜線をゆるく3分下り、四王司山展望所にやってきました。
四王司山は山頂も四王司神社様も展望がなかったのですが、この展望所からは長府の町が一望できます。
写真は下関方向を見たものですが、海の正面に満珠島・干珠島が見えました。
景色が良いせいか、様々にご利益のある方々が長府の町を見守っていらっしゃいました。
ほんの僅かですが海から風が昇ってくるのでここでしばらく涼をとり、このあと勝山に向かうのですが、今日のお話はここまで。
四王司山登山コース
四王司山の登山コースはよく整備され、比較的緩く一時間程度で登れるのでハイキングには最適です。
見どころも多いので、また来たいなあと思わせるコースでした。
真夏のハイキングは水分補給と塩飴
ところで、1時間とはいえ真夏のハイキングは汗をかきまくるので水分補給と塩飴が必須です。
氷を入れた冷たい麦茶を飲めば、体が中から冷えますので体力の回復も早いように思います。
あと休憩ごとに塩飴も大事。体の中の塩分が足りなくなる前に舐めましょう。
2020/08/27追記
後半はこちらです。
ここまでは本当に楽しいだけのハイキング。
ところが勝山に回ると苦行が待ってました(笑)
普通にハイキングするんなら、四王司山を登って下ってが良いかもね。
あと四王司神社様の参道も歩いてみたいな。