自粛で鈍り切った体に活を入れるため、地元の鴻ノ峰(こうのみね)にある高嶺(こうのみね)城跡までハイキングに行ってきました。
高嶺城は別名、鴻の峰城、鴻之峯城、鴻峰城、高峰城と書かれますので、上記は誤字ではありません。為念。
鴻ノ峰は、山口県山口市上宇野令にある標高338.0mの山で、山口県百名山の一つとされています。
が、割と気楽なハイキングコースで、なぜ百名山に選ばれているのか分かりません。歴史かな(笑)
木戸神社
高嶺城へは、木戸神社側と山口大神宮側の2つの登り口があります。
山口大神宮側からの登りは、鳥居があったり岩の洞窟があったりして良いと聞いていますが、割と急坂で、昨日が雨だったためぬかるみを避けて楽な木戸神社側を選びました。
木戸公園側からの登りは、親水公園の木戸公園の風景も楽しいはず。
木戸公園
木戸神社から少し上ると木戸公園があります。木戸公園は、鴻ノ峰から流れる糸米川沿いに展開される親水公園です。
糸米川を挟んで車道の反対側に遊歩道があり、鴻ノ峰に向かう分岐点までずっと整備されたが道が続いています。
上記の看板近くの最初の広場。帰りにはデイキャンの方が何か炊いていらっしゃいました。火は気を付けてねってだけで、禁止はされていないようです。
ところどころに休憩所もありますが、大してきつい坂ではありません。地元の方々の散歩コースになっているようです。
ここの階段を上りきると、その向こうが砂防公園になっています。スタートからここまで、写真愛好家とみられる方と3名すれ違いました。
雰囲気が良いので砂防公園の手前の人口の滝を撮ってみました。絵の勢いほど水があるわけでもなく、砂防公園の広場ではファミリーキャンプが3~4組、思い思いに楽しんでらっしゃいました。写真は割愛。
高嶺城跡
砂防公園にはトイレが併設してありますので、ここでいったん体調を整えます。そして砂防公園を超えた先が高嶺城跡に向かう分岐点となります。山頂まで2,000mと書いてあります。
登り道は舗装された道路ですが、幅は車一台が通るのが精いっぱい。離合できる箇所がほぼないので、徒歩がよいでしょう。看板にもそう書いてありました。
少し息が切れ始めたかなというところに休憩所。割と広く山口市内を見渡せます。ご自由にどうぞという掲示板もあり、山口大学の山口市の地質学的研究レポ(簡単なもの)もありなかなか楽しめました。
先ほどの休憩所から少し上ると、NHKの中継所があります。その右手に高嶺城跡の看板がありました。
高嶺城は、大内氏最後の当主大内義長が毛利氏の侵攻に備えて弘治二年(一五五六)に築いた城です。(以下略)
高嶺城跡の看板
ちょうどここが山口大神宮側からの登りとぶつかる場所らしく、登られてきた方と軽くお話ししましたが「あっちは絶対やめたほうが良い」と仰ってました。多分滑るんだな。察し。
では山頂を目指すことにしましょう。NHKの中継所には車が旋回できるくらいのスペースがありましたが、KRYだかTYSだかの中継所の横を過ぎると途端に道が険しくなります。
多分、ここが一番の難所。登りは良いとして、下りはかなり慎重になりました。少しだけ滑りました。
あーちょっときついなあと思ったところに、また開けた休憩所があって市内を一望できるようになっています。簡単な東屋もあります。どうやって資材運んだんだろうね。お疲れ様です。
そこから少し上ると緩い坂になって
ほぼ頂上に達します。
開けた林を進んでいくと「直進20m 主郭/右60m 石垣」の看板。まずは右に行ってみましょう。
右に進むと昔の井戸がありました。ポンプがついているのですが、触っていいものかどうか。なので水が出るのかどうかは分かりません。
主郭北側の石垣です。かなり崩れていますが雰囲気はあります。
主郭北側の石垣の説明看板です。
分岐点まで戻って主郭への石段を上るとまた石垣がありました。
石垣の説明。こういう看板があるとよく整備されているなあと感心します。
そして頂上へ。ざっと15m四方の開けた土地がありました。
建物の跡はありませんが、この開けた土地だけが当時を忍ばせます。
木が覆っているためまるっと周りを見下ろすことはできませんが、一角が開けており山口の街並みが見えます。そこに看板も設置されていました。
正確に測ったわけではありませんが、色々景色を見ながら、休憩をしながら、登り1時間、下り30分といったところでしょうか。良いハイキングでした。
2020/09/08 追記
仕事で山口市内を走っていたら良い風景があったので追記しておきます。鴻ノ峰は中継所が見えるので分かりやすいです。
ついでに山城と大内氏との関係も明らかにしておきましょう。
高嶺城の築城を始めたのは、周防国・長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。
大内義長は、天文20年(1551年)の大寧寺の変の後に陶隆房(のち晴賢)らに迎えられて当主となったが、天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害し、大内氏の主力も壊滅的な被害を受けた。これに乗じて攻勢を加える石見国の吉見正頼や安芸国の毛利元就に備えるべく、高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。
しかし、毛利氏による攻勢(防長経略)は予想以上に早く、弘治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻した際には、大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなる。結局、大内義長や重臣の内藤隆世はこの城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなる。
高嶺城のウイキペディアから
うーむ、陶晴賢に担ぎ上げられた大内最後の悲運の当主、大内義長の築城だったか。ただウイキペディアの最後は微妙なニュアンスで、大内義長の自刃は功山寺のはずです。おかしいなあ。