高砂市総合体育館の出口に翁(おきな)と媼(おうな)の像が建っていてピンと来たのですが、高砂市は正にあの「たかさごやー」という謡曲発祥の地だったのです。
なんか目出度い気がする。高砂神社に行ってみましょう。
最近の若い方は大々的に結婚披露宴とかやられないので「高砂」と言われても何が目出度いのかピンと来ないかもしれませんが、そもそも披露宴の主役であるお二人が座る一番高い席が「高砂」というお名前になるはずです。
そして余興の一番最初に司会者が「祝いはじめに新郎の大叔母にあたられます○○様に一曲謡っていただきましょう」なんて言うと黒紋付の叔母様が舞台に登り「たかーさごぉやぁー」とうなるもんです。
まあ、いずれも昭和の話ですけど 笑
ま、偉そうに言ってますけど僕もなんとなく目出度そうに感じるだけで、本当のところはよく分かってないんです。「分からなければ原典にあたれ」ってのが大事。そんなわけで高砂神社さんに来てみました。
この記事では高砂のなにがいったい目出度いのか、そして結婚披露宴で「高砂」が謡われる理由などが分かります。前振りが長すぎたね 笑
表門をくぐって高砂神社様の拝殿に進みます。神社にお参りするときは、本当はそのお社の由来を知って、お社に合ったお願いをするのが筋なんですが、今回は「何もわからずに来ました。色々と教えてください。とりあえず女房と長生きできますように。」とお願いをしておきました。運動公園で見た翁と媼からの想像です。
本殿を右に進み三代目相生松を見に行きます。
相生松の看板は大事なので一部を書き写します。
神功皇后の御世に大国主命を祀り高砂神社が創建されてまもなく境内に一本の松生い出でたがその根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥の二神が現れ「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられた。此れより人は相生の霊松と呼びこの松を前にして結婚式をあげるようになった。
むー神功皇后ですか。仲哀天皇のお后さんで熊襲の討伐とか朝鮮遠征の指揮を執った方ですな。仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子ですからかなり存在が怪しい。怪しいけれどもそうした神代の昔から高砂神社はあったということになります。
ま、伝承なんてのはあてにならないですけれども。
相生松(あいおいまつ)は雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え1つ根から立ち上がるように見えるものらしいです。こちらは三代目で、古霊松として相生古霊松舎内に大事に祀られていました。まだなんか生きてるようにも見えます。
写真が前後しますが相生古霊松舎の横に立って丸く囲んであるのが五代目相生松。五代目は秩父宮妃勢津子殿下の御命名になります。
はい!きました。今日のメインイベント「たかさごやー」がなぜ目出度いのかのお話し。
大叔母さんが披露宴でなぜ高砂をうなるのか。この看板ですべてが分かります。
謡曲「高砂」は、世阿弥作と伝えられ「謡曲百番集」では第一番の曲目。初能ばかりでなく、謡曲全体の代表作のように扱われている。
謡曲史跡保存会
物語は、肥後国の神官・友成が高砂の浦に立ち寄り、居合わせた老夫婦に「相生の松」のいわれなどを尋ねる。夫婦は故事を引用して説明した後、尉は住吉の松の精、姥は高砂の松の精であることを打ち明け、尉は「住吉で待つ」と言って消える。友成が浦船で住吉につくと、尉が住吉明神となって現れ、平和な御代を祝って舞う。
尉は爺さん、姥は婆さん。松は不老長寿を表しており高砂と住吉の遠く離れても、夫婦の根っこはいつまでもずっとつながっているよという夫婦和合の精神。
これが「たかさごやぁ」と謡われる理由です。
すっきりしたー。
謡曲「高砂」を挙げておきますね。
高砂や
この浦舟に帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに出で汐の
波の淡路の島蔭や
遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住の江に着きにけり
はや住の江に着きにけり
世阿弥となると神功皇后からはだいぶ時代が下って室町初期になります。
やっぱ歴史ある神社は色々と時代が錯綜するなあ。
次に向かったのが五代目相生松の奥にある尉姥神社様。
こちらでは時代がぐーっと上ります。
御祭神を見ると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冊尊(いざなみのみこと)。とうとう日本を作った神が出てきました。
書いてある内容は相生松略記とほぼ同じなのですが、ここでは神功皇后の頃にイザナギとイザナミが現れて「夫婦の道を示さん」と告げたとなっています。
このように古い神社の縁起は時代が揺れまくるわけですが、民心は一つ。
高砂(たかさご)と聞いたら「ふむ。なるほど。どれだけ年をとっても、どれだけ離れていても、根っこのところで夫婦は繋がってるという夫婦和合の精神のことだね」と答えましょう。
博識っぽくて格好いいじゃん。
これが今日のまとめね。
さて最後に高砂神社略記を簡単に挙げておきましょう。
神功皇后の征西は大己貴命の加護によって果たされた。凱旋の途中、立ち寄った鹿子の水門で「われこの地に留まらん」とのご神託があり大己貴命が祀られたのが高砂神社の創建である。また円融天皇時(天禄年間)に疫病が流行したが、神託を得てこちらに素盞嗚尊・奇稲田姫命を合わせ祀ったところ国内大いに治まる。庶民は喜び祭りこれが恒例化して高砂牛頭天王または祇園社と呼ばれるようになった。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)も伊弉冊尊(いざなみのみこと)も大国主命(おおくにぬしのみこと)も神功皇后(じんぐうこうごう)も世阿弥(ぜあみ)も出てくる高砂神社はやっぱ歴史がありますなあ。
来てみてよかった。