所用で宇部に行った帰りに190号線沿いの「日の山」に登ってきました。
うーん、日の山ってなんかピンとこないなあ。
僕は宇部の生まれでしてね、日の山はその山の形から、地元じゃ象山(ぞうやま)って呼ばれてるんです。
なので、この記事では象山で通しますね。
象山ハイキング
象山への行き方
それじゃあ地元じゃない方のために、象山への行き方から始めましょう。
象山へはまずJR岐波駅を目指して、190号線を海側に曲がります。
線路を越えるとキワ・ラ・ビーチへの看板もしくは新日本料理吉祥さんの看板が見えますので、これを看板通りに左に。
吉祥は坂を上った先にありますが、車はその手前のキワ・ラ・ビーチの駐車場に停めさせてもらうことにしましょう。
キワ・ラ・ビーチの駐車場から川を遡り水門まで戻ると古尾稲荷神社さんの鳥居が見えます。
象山への登山道はたくさんありますが、今日はここから入っていきました。
象山 登り
古尾稲荷神社の鳥居をくぐると石段があり、モミジの落ち葉が積もっていました。
良い季節にあたれば、綺麗な紅葉を見ることが出来るに違いありません。
石段を登った先には立派なお狐さんがおられました。
古尾稲荷大明神の由来を写真に残しておきます。かなり歴史のあるお狐様のようです。
毎年人出の多いお狐様のようですが、この年始は参拝に制限がかかるのでしょう。石段の途中に「日の山山頂の元旦恒例の諸行事は、新型コロナウイルス感染防止のため○○○○とします。悪しからず、ご了承ください。」とのお知らせがありました。
大事なところが滲んで読めなかったのですが、察するに中止か規模縮小のようなニュアンスでした。
残念なことです。
古尾稲荷大明神への参拝をすませ、さて象山の登山口はどこやったかなと神社の周りを探しました。
神社正面右手に車が通れそうな林道があり、その左手に山に入っていく道があります。
これまた文字が滲んで見えないのですが、ここから登って問題はありません。
象山のとりつきは綺麗で明るい山道でした。落ち葉が積もり足元もふかふかです。
このルートかどうか分かりませんが、地元の小学校の遠足にも使われている(いた)みたいですよ。
象山は子供の足にも丁度いいと思います。
たぶん、初めて山を登ってみようと思う人にも合うはずです。
象山の登りは途中から岩が露出し始め、岩場にはペンキで矢印が書いてありました。
木にはほとんどリボンが結んでなく、いや、まあ、リボンがなくても迷いようのないくらい道が良いのですけれども、なぜか岩場だけこんな感じで丁寧でした(笑)
山を半分くらい登ってきたところでT字路にぶつかりました。この分岐に立って、右を見ても左を見ても道が良いんですよ。
う━(・n・`≡´・n・)━ん
どのみち巻き道で合流するんだろうと、左をチョイス。
で、このチョイスが失敗でした。
降りてから地図を見直すと、右は日の山千畳敷という物見台があったようです。
知らなかった。ここは道標が欲しかったなあ。
選んだ左側の道はすぐに岩に挟まれた小道になりました。
でも、空は開けてるし、よく整備されて、歩いていて気持ちがいいんです。
こんな感じです。
岩の広場から振り返った景色は、たぶん190号線方向。
だとすると向こうの山の形から火の山連峰の方向を見ているのかもしれませんね。
先ほどの広場から少し上ると、屋根になった大岩の下に小さな祠がありました。
これが旧古尾稲荷社でしょうか。
少し高い位置にあったので近くまでは寄りませんでしたが、「山にお邪魔します」と手を合わせておきました。
岩場を上がるとすぐに尾根です。
写真は山頂まで300mの看板近くですが、400mあたりからずーっとこんな感じの平坦な道が続きます。
陽が入って明るくて、風は吹き上げてくるけど、これが気持ちいいんです。
先ほどのT字路からの合流点(右から上がってくる道)がないなあなんて思いながら、ここはのんびり歩いていきました。
象山山頂
そのまま特にドラマもなく、最後にちょっと登ったかなというくらいで”象山山頂”に到達。
写真では”日の山山頂”となっていますが、宇部出身者としてはあくまで象山という呼称にこだわります。
標高は146m。遠足気分でOK。良いところです。
山頂の大岩の向こうにひっそりと佇む二等三角点を発見しました。
右から書かれた二等、角も肉、点も旧字体の點。
立派なもんですよ、これ。
象山山頂の景色
象山山頂を少し降りたところに焼火神社(たくひじんじゃ)様がありまして、山頂よりもここからの景色のほうが良かったので、例によってビデオを回しておきました。
焼火神社様の由来は写真をしっかり読んでもらうとして、簡単には近隣の火災鎮護の神様であるとの由。
( ̄~ ̄;) まいったねえ
僕はコーヒーとたばこを山頂で一服するのが常なんですけど、さすがに火災鎮護の神様の前で吸う度胸はありませんわ。
よっしゃ我慢だな。降りよう。
象山 下り
で、見ると焼火神社様の正面に石段があるんです。
これ参道かなあ? あ、そっか。これが最初のT字路につながってんじーゃんって思ったんですね。
なので、こちらから降りることにしました。
参道の石段を下りてから、すぐ左に向かって急こう配の下りです。
あー、これ最初のT字路にはつながってないわーとすぐに気が付いたのですが、まあ知らない道のほうが楽しいかなとそのまま下ることにしました。
海側に降りるはずですし、象山のサイズなら麓を回り込んでも大した距離じゃありませんし。
先ほどのような急こう配がずっと続きましたが、麓に近づくにつれ明るい竹藪に変わりました。もうそこらに人家も見えてきています。
そして車が入ってこれそうな林道は、またも分かれ道に。
ここは駐車場方向の右に進みました。
予想通りに海の方向に降りてきました。人家が見えるので舗装路があるに違いありません。
もう少し降りると日の山登山口の新しい看板を発見しました。
でも、この看板って、舗装路から入り込んでるから地元の人でないと知らないよなあ。
意味あんのかね?(笑)
なんてー思いながら、後は象山の麓を回り込む舗装路を進み、吉祥の前を通り、古尾稲荷神社鳥居の前を通ってキワ・ラ・ビーチまで戻りました。
今日のコース
ここで今日のコースをおさらいです。
スタートはキワ・ラ・ビーチ。
古尾稲荷神社鳥居から入って、山道を登り、頂上からは焼火神社の石段を降りて海方向へ。
後は象山の麓を回る舗装路で帰ってきました。
一周ざっと3㎞の気持ちのいい遠足でした。
象山万歳です。
象山の思い出
キワ・ラ・ビーチまで戻ってきてコーヒーと煙草で一服。僕は宇部出身なんでね、ここらの海を見ていると色々と昔のことを思い出します。
この記事で日の山のことを象山と書き続けましたが、これは親父の影響です。
昭和40年代、僕は宇部市の中心街に近い桃山、新川、鵜の島あたりで少年時代を過ごしました。
今はいい道がたくさんあるけども、あの頃、東岐波の象山を見るっていうと190号線を通るしかなかったんじゃないかなあ。
例えば、親戚を小郡駅に迎えに行くとか、西岐波にあった喫茶店 田(でん)でクリームソーダを食べたついでにドライブに巡るか、そういう親父の機嫌の良い時にしか東岐波に来る機会はなかったように思います。
「えーぼー、あれ象山っちゅーんど。」
「なんで?」
「形が象みたいじゃろーが。」
「うわー(嬉) ホントじゃねー!」
小学生の僕には目の前に与えられる情報が全てでね。その後、昭和50年代の終わりに自分で車を転がすようになっても象山は象山。その頃には日の山って知ってたけどさ。
だから今でも象山は象山なの。
情報のエントロピーと孫へ
象山という山の名前に象徴されるように、昭和という時代は与えられる情報が少なかったものの、子供の狭い世界で生きていく分にはそれで十分だったんだよなあと感じます。
今やインターネットにスマホと情報の拡散も薄まるのも加速度的に早くなっており、エントロピーが増大し続けてるのを体感する五十代です。
Dog Year過ぎて付いていけてないんだよ。まいったねえ。
最近思うのが、僕の爺ちゃん、婆ちゃんは明治大正昭和と生きてきたんだけど、僕は昭和平成令和を生きてきた古い爺ちゃんって呼ばれるんだろうなあなんてね。そんなことを考えちゃう。
いつか、まだスマホも持たない孫を象山に連れて行って、こう教えてやろうと思うんです
「あれ象山っちゅーんど」
「じーちゃん、なんでー?」
「形が象みたいじゃろーが」
孫はいつか日の山と名前に気が付いて驚くでしょう。
楽しみです(笑)
追記
象山からの帰り道、きららドームを越えて小郡を見下ろす道を走ってたら、街の向こうに良さそうな山が見えました。
明日はあそこに行こう。
少し距離を広げてみて東岐波の思い出も。
高校時代の彼女
東岐波の思い出っていうと、まず高校時代のカノジョが東岐波だったなあなんてのを思い出しますねえ。家から自転車で山を超えて彼女の家まで行ってた。あれはアホみたいなパワーだった。
どんだけパワーを使っても、大学1年目の秋には振られたんだけどね。
大学時代の釣り
象山の下はあんまり釣れなくて、最後にナマコ拾って帰ったことがあります。その時、カブトガニの死骸も見つけたかな。あんまり触ってはいけないと思って置いておいたけど。
山陽荘病院
あと大学4年目に母方の婆ちゃんが亡くなったのが、このキワ・ラ・ビーチのベンチから見える、今の国立病院機構山口宇部医療センター、当時は山陽荘病院って名前だった。
20代の僕は身内の死と向き合うのが怖くて祖母が生きているうちに行けず、もっと話をしておけば良かったと涙したのがあの病院だ。
もうちょい後だけど父方の婆ちゃんが亡くなったのもあそこだ。あれ、叔父貴が結核で入院したのも、女房が肺非結核性抗酸菌症で入院したのも、そういえばあの病院だ。
幸い女房は生きていて、今でも話はたくさんできる。それはそれでなかなか面倒もあるんだが、後悔はしないようにしよう(笑)
少し西に進んで則貞の思い出も。
秋穂から宇部の草江あたりまでは(炭鉱の埋め立ては多少あるかもしれないが)元々遠浅の地形で、そこから西は人工的な埋め立て地。
昭和40年代、岐波海水浴場から約10㎞西の則貞には母方の婆ちゃんが住んでいて小学生の僕はよく婆ちゃんちに泊まりに行っていた。
これは、さっき最期に話のできなかった婆ちゃんちの話。時代的には見城美枝子(ケンケン)のおはよう700だか720とか、田中星児のbeautiful sundayが流行った頃かな。
https://www.youtube.com/watch?v=pfMbV_DP5mE
おお。この記事を書いていて急にイン・ザイールを思い出してしまったので、これも追記。
https://www.youtube.com/watch?v=vbYwBy7BbXE
この頃、プロペラ機しか停まらなかった宇部空港は滑走路が短くて、今、亀浦公園になってるあたりは遠浅の良い漁場でした。
則貞で何が獲れたかっていうと。
まずアサリ。
則貞の海は潮が引くと延々砂浜が続いて、逃げ遅れたクラゲやイイダコがそこら辺りに転がっていたのね。もちろん、そんなもんには目もくれずだけど。
休日に婆ちゃん、お袋、姉ちゃん、僕でバケツを抱えて貝掘りに行くと、それぞれがそれぞれのバケツにいっぱいのアサリを持って帰ってきてたのよ。
もちろんそれだけの量を味噌汁じゃ食いきれないんで、ばあちゃんが剥き身にして佃煮を作ってくれてた。
大皿に山盛り。すごいの。
白ご飯が進むやつ。
あとマテ貝。
あと、マテ貝も結構採ったなあ。マテ貝って今の子、分かるのかなあ。殻の細長い、砂浜にいるやつなんだけどさ。
潮が引いた直後の砂浜に人の指を刺したサイズの穴がポコポコ開いてるんだけど、ここに塩を一つまみ入れる。
するとピュッと貝が飛び出してくる。
これを指でつまんで捕まえるの。めっちゃ簡単。
マテ貝の食べ方は、綺麗に洗ってからフライパンに大量にマテ貝を入れて、焼くんだか蒸すんだか、とにかく火を入れるだけ。
殻を筋沿いにパックリ割って中の身を食べるんだけど、柔らかい貝柱みたいな味と触感だった気がする。いやムール貝か。
あの頃、貝柱なんて食べなかったから比べられないんだけどさ。
マテ貝もいくらでも採れたなあ。
爺ちゃんの小舟
爺ちゃんが小舟を持ってたんで、則貞から、爺ちゃんと親父と僕と三人で何回か釣りに出かけたことがある。
親父は乗合いの船にも行っちゃうようなガチだったんで、正直、爺ちゃんの小舟とはお付き合いだったはず。なので(今ならわかるけども)孫の僕が必要なわけさ。
女房の親父と二人って耐えられないからね(笑)
でね、今考えると公園の手漕ぎボートにモータ付けたようなサイズの船に三人だよ。
いくら遠浅の海でもちょっと沖出れば揺れるし、子供の僕には無理っす。
だいたいの場合、僕のカール・カレー味を撒餌にして二人は釣ってたね。
てかあの頃、誰も救命胴衣着てなかったな。
漁業権とかもうるさくなかったし、色々すごい時代だったわ。
ざっと宇部の東海岸沿いの思い出ででした。