週の半ばに雨が降ったので、道がぬかるんでいたら引き返そうくらいの気持ちでハイキングに行ってきました。
選んだのは近場の低山、防府市の矢筈ヶ岳です。
防府と言えば右田岳が有名なのですが、このご時世ですから人が集まりそうなところには近寄らないのが吉です。
まあ、そんなマイナー扱いの矢筈ヶ岳ですが、歴史もあり、山頂近くの石舞台からは防府の街を一望でき、なかなか良いところでしたよ。
※こちらは9月27日(日曜)の山行の記事です。歩き過ぎてて記事が追い付いていない状態です。為念。
敷山城址駐車場まで
Google Mapsで検索したところ、矢筈ヶ岳には敷山城址から入るのが良さそうです。
2号線を防府から周南方面に進み、1つ目のトンネルを抜けて、最初の交差点を左。すぐに敷山城址参道の看板が見えるのでこれに沿って進みます。
途中の高架をくぐる際に、背の高い車は迂回を強いられますが、これも看板が出ていますので指示に従えばOKです。
敷山城址駐車場は道のどん詰まりでした。車は3台程度しか停められないので、運悪く先行者がいらしたら、諦めて矢筈森林公園の駐車場を目指してください。
矢筈森林公園からのコースでは敷山城址を通らないはずですので、楽しみは半減するかもしれませんが。。。
矢筈ヶ岳登山
敷山城址駐車場から験観寺本堂跡まで
敷山城址駐車場のすぐ手前に登山口があります。ここから矢筈ヶ岳に入っていきます。
最初は竹林を進みます。
すぐに忠魂碑と敷山城跡の分岐が現れました。
城跡が気になるので寄り道は避けたいところですが、忠魂碑らしきものは林の向こうにすぐそこに見えます。
せっかくなので忠魂碑なるものを見に行くことにしました。
立派な石碑です。
この時点では、なんの忠魂やろうなあと思っていましたが、帰り道に見つけた説明看板で分かりました。
ちょっと長いのですが看板を書き写しておきます。
鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇が行った親政(建武の新政)は朝廷や公家を重視したもので、武士たちの間に不満が高まっていた。
山口県教育委員会
このような情勢の中、足利尊氏は建武二年(1335)に武士の政治を再建すべく挙兵し、以降約六十年にわたり吉野(奈良県)と京都に天皇を擁して戦う南北朝の戦いが続いた。
戦いの当初、尊氏は一度は破れ九州に逃れたが、兵を集めて勢力を得て、再び京都へ攻めあがった。長門・周防国の有力な武将はその多くが尊氏側につく中、周防国府の役人である小目代の摂津助公清尊(せっつのすけきみせいそん)、検非違使の助法眼教乗(すけのほうげんきょうじょう)は後醍醐天皇側につき、大内弘直、小笠原長光らの武将や周辺の多くの人々とともに延元元年(1336)七月、験観寺を城として挙兵した。
この験観寺は鎌倉時代中期創建で、十二の僧房を持つ、周防国府や東大寺ともつながりのある寺であった。
尊氏は挙兵によって九州と分断されるのを恐れ、ただちに彼らを一族の石見国守護上野頼兼に攻撃させた。清尊や教乗は奮戦したが大群の前に敗北し、七月四日に戦死した。
毎年八月には、地元の人々によって慰霊祭が行われている。
忠魂碑にかかる倒木が気になったのですが、僕一人の力では何ともならず、ごめんねと手を合わせておきました。
忠魂碑から折り返して竹林の中を進んでいきます。
この日は風が強くカッシカシッと竹同士が当たる音がして、何か近くに動物がいるのではないかとドキドキしました。
竹林を抜けると何も書いていない分岐点です。
左の岩の上にケルンのように小石が積んでありましたが、どう見ても右の道がメインっぽいんですよ。どっちなんだろうなあ。
左の道はクモの巣が張ってるし、カン頼りで右に進むことにしました。
結局、右で正解だったのですが、なんでもかんでも石積むのやめて欲しいなあ。
あれ、初見殺しだぞ。
かつては工事用車両が入っていたかもしれない割と開けた道を登っていくと、なにやら門柱のようなものがありました。
「史跡 敷山城址」と書いてあります。
先の説明と重複するところがありますが、これも書き写しておきましょう。
史跡敷山城跡は、敷山験観寺の寺坊十二ヶ所跡で、俗に十二段と称されている。
防府市教育委員会
建武中興に反逆した足利尊氏に呼応出兵した、大内厚東氏の虚に乗じ、周防国衙(すおうこくが)の小目代清尊、検非違使教乗らが、延元元年(1336)六月義兵を挙げ、地の利のある験観寺に籠城した。
義軍蜂起の通報に驚いた尊氏は、石見国上野頼兼に命じて、敷山に軍を向かわせた。
工房十日余りの奮戦後、清尊、教乗両師は自害、ついに七月四日、敷山城は落城した。
敷山験観寺跡(敷山城跡)は、建武中興の功臣清尊、教乗両師等義戦の地として指定された。
先ほどの門柱の左から、木で土止めされた階段を上っていきますと景色の開けたところに出てきました。
見晴らし台になっているようで、防府の街がよく見えます。
風景を眺めながらコーヒーで一服といきたいところですが、ここにはそれよりも僕の興味を引くものがありました。
それが梵字岩です。
なんだこれは。この前見た摩崖仏みたいなやつかなとじっくり見入りましたがなんだかよく分かりません。
書いてあるのは梵字だそうです。
梵字岩
防府市教育委員会
この石には右から「金輪聖王・天長地久・文永二年乙丑五月」と刻まれている。
建立の年代から敷山の戦には関係なく、名刹験観寺の、時の院王が「金輪聖王」という理想の王に、永遠の平和を願って立てたものであろう。
石碑建立九年後、元寇の役が起こっていることから、石碑は元の侵略から国の安泰祈願をするために建てられたとする説もある。
うーん、えらく古い時代に栄えた山なんだなー。
足利尊氏とか鎌倉から室町、特に南北朝時代は人間関係が複雑すぎてさっぱり分からんぞ。しかもそれより古い梵字かあ。とつらつら考えながら大きな岩の段を登っていましたら目の前に急に鳥居が現れました。
「寺」が頭にあったので鳥居の存在に違和感を感じましたが、それよりも目の前に開けた景色です。鳥居と緑。空に抜けていく色。
なんか歴史とかどうでもいいや。多分、ここは良い場所なんだなあと。そんなことを思いました。
一礼して鳥居をくぐり、お社さまに参拝。振り返ると立て看板がありましたので、これも書き写しておきます。
敷山験観寺本堂跡
防府市教育委員会
ここは敷山験観寺寺坊跡十二ヶ所(俗に十二段とも呼ぶ)のうちの最頂上部本堂の跡で、方形に巡らした石垣や礎石は、完全な姿で残っている。
この山は矢筈ヶ岳と呼び、海抜460メートル、花崗岩から成り立っており、験観寺跡はその八合目に位置する。
だそうです。うん。なるほど。
お社様の意味が全く分からん。
おそらく清尊・教乗ら義戦を戦った者の鎮魂のために地元が御社を祀ったのだと思いますが、多分、説明を書いた方は鳥居を見てもお社を見てもハッともしないんでしょうねえ。まあ、学術的には正しいこと書いてるんでしょうから。
験観寺本堂跡から矢筈ヶ岳西峰へ
さて、歴史の道はここまで。ここから山道です。
矢筈ヶ岳にはお社の左から入っていきます。
お社の左から山に入ったらすぐに右に上がって行きます。
直進する道もありますが、それがどこに続いているのか僕には分かりません。
たまたま本堂でお参りしてたら山を降りてきたおじさんに会いましてね。
「そこ右だよ」って教えてくれたんです。
看板もないしラッキーでした。
もしかしたら分岐に気が付かずに直進してたかもしれないもんね。
先ほどのお社の位置が八合目と書かれていたのに、結構急な坂が長く続いていきます。
リボンが巻いてあるので道を外れることはありませんが、小道の上に乗った枯葉が滑ります。たまに石車にも乗ります。
もう登るのが楽しくなっちゃってるんで、道が滑ろうがぬかるんでようが帰る気はさらさらありません。
ここまで来たらピークハントしなきゃ終わりませんよ。
当たり前だのクラッカーです。
枯葉に覆われた小道を上がり稜線に出ると木もまばらで、非常に良い風が吹き上げていました。
左手の林の向こうに石舞台が見えます。
あの方向は角度的に瀬戸内方向に開けてますので、良い景色がみられるに違いありません。
速攻で行ってみました。
石舞台には梯子が渡してあり、上まであがることができます。
うおー。防府の街が丸見え。すげー。
石舞台の上でしばしの休憩をとタバコを一服していたら、麓の佐波川方向から太鼓の音が響いてきました。祭囃子? なにこのシチュエーション?
なにか太古の鼓動を感じながら、石の上でボケーっと街を眺めておりました。
矢筈ヶ岳西峰から矢筈ヶ岳へ
十分休憩し、一応GPSで自分の位置を確認してみると今の地点は西峰。まだ矢筈ヶ岳山頂へ到達していないことがわかりました。
ついでにスマホの充電が40%くらいしかない。
まいったねこりゃ。何かが起きても電話もできなくなるかも(怖)
とっとと矢筈ヶ岳に行かなくちゃと。
頭に入れた地図をもとに矢筈ヶ岳山頂へむけて、いったん稜線を下りました。
矢筈ヶ岳山頂手前で急な岩場にぶつかりました。
ただ、ロープが張ってあるので登るのは問題ありません。ロープには道を外れていない安心感もあります。
というのが、この岩場の前にも大岩を越える場所があったのですが、そこはリボンが見つからなかったので道が合っているかどうか不安だったのです。
岩場を上ると今度はシダの洗礼。人気のない山であまり踏まれてないのでしょうね。シダが左右から枝を伸ばして道を隠そうとしていました。
まあ、地獄台に比べれば全然上等です。
シダを抜けると道が少し開けて、何やら看板の置いてあるところに出てきました。
どうやらここが矢筈ヶ岳山頂のようです。
矢筈ヶ岳の山頂は狭く三角点以外に何もありません。あ、そう言えば山頂を示す看板が転がっていました。この2つ以外にはなにもありません。
三角点は土ぼこりをかぶって等級がよく見えなかったので、麦茶をかけて洗ってあげました。どうやら三等のようです。
山頂には特段座るところもないのでこの三角点に腰をかけて一服することにしました。三角点に対して優しいんだか酷いんだか分からない僕です。
あまり計画もなく上がったけど、まあどうにかなったなあと一休み。
今日のコース
この頃にはバッテリーが30%になっていたので記録も片道で中止しておきました。ピストンだったので記録的にも問題はないのですが、記録よりもなによりも万一ために電話機能を残しておかないとね。
敷山城址駐車場から矢筈ヶ岳山頂までは、登って降りて休憩入れても1時間半です。前半は歴史の道、後半は登山。なかなか変化に富んで見どころも多く歩きやすい山でした。ちょっとハイキングってのに向いてる山だと思います。
では最後に山から防府の眺望をどうぞ。頂上手前の崖からの景色です。
南北朝時代に興味はあるけど苦手
山の前半は歴史の道って感じでしたが、足利尊氏とかでてくるともう訳分かんないんだよね。鎌倉から室町・南北朝ってのは人間関係が複雑で裏切りも多いし、興味はあるんだけど苦手な時代です。僕と同じような人はこのあたりからスタートやね。一緒に学びましょう、漫画でw