山口市黒川と陶・鋳銭司の分水嶺にあたる黒河内山の二等三角点には「荒神山」という基準点名が付けられています。
この荒神山というお名前は地名にリンクしません。なにかの伝説や伝承があるんじゃないのかと、軽い気持ちで調べ始めたら、そこには地域の人たちの想いを感じさせる逸話が残されていたのです。
黒河内山の基準点名はなぜ荒神山か
さて「黒河内山の基準点名はなぜ荒神山か?」最初はネット検索から始めました。そして数少ないキーワードを組み合わせていくうちに、山口市+荒神+遺跡の検索で山口市埋蔵文化財地図 7-web用200dpiを見つけたのです。
上図の左下、地区境界にあるのが黒河内山。右上の高倉山にあるのが「004 高倉荒神遺跡(たかくらこうじんいせき)」です。これを見ると、距離的にも近い高倉山荒神がそのまま黒河内山に付けられたのだろうと推測できます。
ここで新たにとらえたキーワード「高倉荒神」を更に追いかけていくと美祢市の高倉山願成寺様にたどり着きます。こちらのお寺の由緒書がもっとも時系列を追いやすいので、文字に起こしてみましょう。
高倉三宝荒神尊の伝承の由来は、推古天皇五年二月、朝鮮百済国の第三皇子である琳聖太子(大内家開祖)が、聖徳太子に教えを乞うべく来朝せられし折、平素から信仰されていた三宝荒神尊像をご自身の守護神として奉戴(ほうたい)して周防国多々良浜(現防府市)に到着され、一宇を建立し安置されたものと伝えられている。
大田高倉三宝荒神尊由来看板
その後、大内家十一代茂村公が吉敷郡恒富村(現山口市)の毘沙門山に自らが開祖となって大内家累代の祈願寺である願成寺を建立した際、その祈願神として多々良浜(現防府市)から三宝荒神尊を移し安置された。
しかし、明治維新の廃仏毀釈により願成寺が荒廃したのちは(中略)明治十一年九月龍華山と呼ばれたこの裏山に三宝荒神尊を遷座し、地名を高倉山と改め当地に願成寺を再興した。
なるほど、願成寺さんのことはよく分かりました。ただ、山口市黒川には高倉荒神社も現存しますのでこの2つを併せて時系列に並べてみましょう。
- 推古天皇の時代、大内家開祖である琳聖太子が防府に高倉荒神社を建立した
- 平安時代に大内茂村(多々良茂村)が防府にあった高倉荒神社を山口市の毘沙門山に遷座。山名も高倉山に変更。
- 大内茂村は大内家累代の祈願寺である願成寺を高倉山に建立し、防府にあった三宝荒神尊像は願成寺に納めた。
- 明治元年からの廃仏毀釈により高倉山の願成寺は荒廃
- 明治十一年、美祢市大田に三宝荒神尊を遷座し、お寺の裏山の龍華山を高倉山と改め高倉山願成寺を再興。
- 明治四十三年、神社合祀により高倉山の高倉荒神社は山を降り現在の地黒川に遷座。
さて、二等三角点の測量は明治十六年から始まります。
黒河内山の測量がいつ行われたのかは分かりませんが、お上が勝手に始めた廃仏毀釈や神社合祀により歴史を壊され、山を降ろされ、心のよりどころを奪われた地域住民の想いはいくばくか。
黒河内山の二等三角点の点名を決めるにあたり、たとえ黒河内山と高倉山に距離はあろうとも地域の信仰の証として「荒神」の名前を残したい、そういった地域住民からの訴えがあったことは想像に難くありません。
黒河内山の基準点名はなぜ荒神山か?
黒河内山の二等三角点の基準点名はなぜ荒神山か?と問われれば「廃仏毀釈や神社合祀により歴史や信仰を奪われた庶民のかすかな抵抗が「荒神山」の名前を残させたのだ」と僕は答えます。おセンチな推測混じりではありますが、この推測はそれほど外してないと思うのです。
高倉荒神、歴史の旅
さて、今回の記事を書くにあたり関係がありそうな場所を回ってきましたので資料として残しておきます。最初の高倉荒神社があったかもしれない防府市高倉町、山口市黒川の現状、大内氏の祈願寺を移した美祢市大田の願成寺さんです。
防府市高倉町の高倉荒神社
大内家の開祖である琳聖太子は多々良浜に着き荒神社を建てたとされています。その後、大内茂村がこれを山口市の毘沙門山に移したということですが、防府市の高倉町には今も高倉荒神社があったりします。
高倉町の高倉荒神社はル・モンド・ベロの通りにありました。こちらの通りは微妙に一方通行なので行かれるなら注意が必要です。車は少し先の福宝寺さんに停めさせてもらうと良いでしょう。
先に示した由来書きと同じ部分は省くとして、防府市高倉荒神社さんの由来書に拠れば、福宝寺一帯の地を高倉山と呼んだそうです。そこから「明治十八年社寺分離令に従って現地に遷座」となっているので伝記の高倉荒神社様ではないのでしょう。
そもそも琳聖太子云々という話は微妙なところがありまして、大内氏が朝鮮半島との交易を有利に進めるために後年系譜を捏造したようなので話半分に聞いておいたほうが良い気もします。
山口市の高倉山
大内茂村が高倉荒神を防府から遷座したという高倉山(毘沙門山)に、高倉荒神遺跡を見に行こうと思いまして国の天然記念物「平川の大スギ」から入ったのですが途中で道が分からなくなって撤退しました。
後日、別のルートから行ってみます。
山口市黒川閏の高倉荒神社
次は明治期に高倉山(毘沙門山)から降ろされたという山口市黒川の高倉荒神社さん。毎年2月28日がお祭りなんだそうです。
前半の由来はこれまでとほぼ変わりません。上記由来の最後に「おためしの神事」と書いてありますが、これは高倉山の中腹にある水たまりで当年の稲作の豊凶を占うんだそうです。
去年のローカル紙の記事を見ると神事を執り行っていらっしゃるのは朝田神社の宮成さんのようです。この占いが結構当たると評判なんですって。
初めてお参りしたのですが山口市黒川閏の高倉荒神社さんはめっちゃ綺麗でした。ちょっと新しすぎるなあと思ったら2002年に火事で焼失後建て替えられたそうです。
高倉荒神社さんの拝殿を眺めるとなぜか正面の瓦に毛利の家紋(一に丸三つ)が入ってるんです。そもそもが高倉荒神社は大内ゆかりのお社だと思うのですがこの家紋のとこがちょいと不思議。
不思議といえばもう一つ、この高倉荒神社さんのいらっしゃる地区の住所が「閏」なんです。上の写真でNTTは潤い(うるおい)の字を使ってますが、国勢調査で使う地籍境界では黒川閏となっています。この文字、閏年の閏(うるう)なんです。
年に一度の大祭が2月28日で住所が閏なんて、ここにもなにがしかの逸話がありそうです。
美祢市大田の高倉山願成寺
さて最後は美祢市の高倉山願成寺さん。こちらには由緒書がたくさんありましたので学びも多くありました。心に響く言葉もあったので撮ったままに掲載させていただきます。
美祢市大田の高倉山願成寺さんへは、中国自動車道から萩方面に抜けて大田ICから降りれば5分もかからずに到着です。
近年改装されたのか綺麗なお寺さんですね。
おっとー!山門に注目! この山門の上部に光り輝くのは大内菱じゃありませんか。大内菱というのは大内氏の家紋です。やはり大内ゆかりのお寺。こういうところに歴史は生きているんだなあとじーんときます。
山門をくぐって本堂へ。
琳聖太子由来の三宝荒神尊像は龍華山改め高倉山の山頂に収められているようです。
ブランニュー高倉山、行ってみましょう。
大田高倉三宝荒神様の御開帳は25年に一度とのこと。御坊のお話では次は20年後とか。多分、僕は生きてないので誰か見ておいてください。
荒神信仰について
ここまで書いてきて、そもそも荒神様とはなにかという話を書き忘れていました。これは「荒神」のWikipediaがとても良いので見に行っていただくとして、とりあえずここでは超訳しておきます。
荒神信仰
Wikipedia 荒神
荒神信仰は西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであった。荒神信仰には二通りの系統がある。「三宝荒神」と「地荒神」である。
三宝荒神
仏法僧の三宝を守護し不浄を厭離(おんり)する佛神である。一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。竈の神様であり、江戸時代の民家の台所には必ずといってよいほど祀られていた。
地荒神
地荒神は屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。
身近な神様仏様なわけです。
こちらが大田高倉三宝荒神尊社様。装飾などの造りに見惚れます。
Wikiには「仏法僧の三宝」と簡単に書いてありましたが、三宝(三尊)とは大日如来・文殊菩薩・不動明王様のこと。あらゆる災難、苦難を断ち、幸せに導いてくださるありがたい神様仏様なのです。
一つ、我を信ずれば、一切の災難を救う
二つ、我を信ずれば、一切の苦難を救う
三つ、我を信ずれば、一切の満足を与う
こんなに現世利益のある素敵な神様仏様をお上に取り上げられたらそりゃ地元民は怒りますよ。山の頂(いただき)にその名前を残しておかなければ神様仏様にも申し訳ない気持ちになるってもんです。
だから黒河内山の二等三角点は「荒神山」なんです。納得できるでしょ?