桂木山の記事で美祢市や大内氏の話が出てきましたので、この夏の終わりに登った如意岳の話しでも。
今回の記事で取り上げる美祢市の如意岳には埋蔵金伝説があるんです。
なんでも、大内氏が敵から逃げ延びる際に邪魔になった金銀財宝を如意岳の麓に埋めたとか。
すごいじゃん!俺、金銀財宝を見つけたらもう働かなくていいじゃん!
如意岳登山口への行き方
他のトレジャーハンターさん達のために如意岳への行き方を説明しておきましょう。
山口市から鳳翩山を越えて(秋吉台には行かずに)県道31号線をひた走ります。秋芳梨集果場を越えて県道36号線を真っ直ぐに三隅方面へ進んでください。
別府弁天池には曲がらずに直進すると、右手の田んぼの中にポッコリと山が見えてきます。これが如意岳です。
麓近くで写真のような水源涵養林の道標または長門國日吉神社の石碑を見つけたら右に曲がってください。
狭い道に入ります。長門國日吉神社様を通り過ぎ、車一台がやっと通れるような舗装路を進むと突然開けた駐車場に到着。
山陽小野田市水道局の水源涵養林駐車場です。
この駐車場にはトイレも自販機もありませんので、31号線を走っている間に諸々の体調は整えておいた方が良いでしょう。
如意岳の日の峰コース登山口はこの駐車場奥の階段を上った先にあります。
早速行ってみましょう。
如意岳登山 日の峰コース
うおっと!いきなり埋蔵金伝説の如意岳登山口と来ました。地元のかたも煽りますねえ(笑)
しかし肝心の埋蔵金伝説の内容を示す看板がありません。これじゃあ片手落ちってもんですよ。
なので、ネットで聞きかじった伝説を再度ここに載せておきます。
大内氏最後の当主大内義隆が陶晴賢の謀反にあい山口を追われる。大内義隆は最終的に長門の大寧寺で自刃するが、山口から長門への敗走中に持参していた財宝を如意岳の麓に隠した。
ネットの情報
というのが如意岳の埋蔵金伝説です。
如意岳 日の峰コースの取りつきは沢の横を上がっていきます。
怪しい岩陰はないか、財宝の目印になりそうなものはないかと、あたりに目を配りながら登っていきます。
だって、当てれば一攫千金ですも~ん。
ほどなく沢からは分かれて林間コースとなりました。
非常によく踏まれています。こんなに綺麗じゃもうお宝は誰かに見つけられてるかもしれません。
と、ここで前の前の週に勝山を登ったときの記憶が蘇ってきました。
あれ? 大内氏最後の当主って下関の勝山で追い詰めらたんじゃなかったっけ?。
なんだかおかしいぞ。
頭に疑問を残したまま進んでいますと、コンクリで固められた細い道に出会いました。
これ、自然じゃないよね。苔むしてるけど手が入ってますよね。
中腹を横切る道は落ち葉もなく快適。ゆるゆるの巻き道で一息つくことができます。
伝説が本当であれば既に麓は越えてしまったのでお宝は見逃したようです。
前の道はまだギリギリ自然の造形なのかなと思いましたが、階段状に均された道となると、これはもう完全に手が入っていますね。
と思ったら目の前が丘状に開けて、そこに鉄塔が立っていました。
あらー。これだけ開発されてるんだもんなあ。
もしお宝があったとしても、とっくに中国電力に接収されてるわ。
あきらめて鉄塔の下をくぐり先に進みます。
道の質が変わって岩と花崗岩の砂利になりました。ここは少しだけ急登で足が滑ります。
枯れ葉の積もる森に入ったので、滑らないように足元に気を付けつつ歩いていて、視線を上げると、目の前に猪!
と思ったら木の根っこでした。
この時はマジで死んだかと思いました。
と思ったら偽ピークでした。
ここ登りもきついのですが、道が傾いてるので体が谷側に落ちそうになるんです。
枯葉で足元も滑るし、今日一の危ないところですね。
足取りも軽く進んできて、この辺りではお宝のことなどすっかり忘れていました。
先ほどの急登を登ると赤白鉄塔の立つ開けた場所に出ました。もうすぐそこが頂上です。
この赤白鉄塔は他の山から見てもポイントになりますので、覚えておくといいですね。
一山越えてきたのでタバコを一服したいのですが、頂上への道標があるので休めません。
GPSを見ると本当に頂上がすぐそこのようなので先を急ぐことにします。
赤白鉄塔の広場から如意岳山頂へは大した高さがあるわけではないのですが、下草の生え方が違うっていうか、もう一度麓から登るような雰囲気の草木に変わります。
山頂手前にやたらでかい岩があって、これを回り込んで上がってきました。写真は登った後に、上から岩を見下ろした図です。
先ほどの石から上を見上げれば山頂。
麓からの距離は大したことないんですが、ここまでやたら長かった気がします。
お宝を探したり、歴史に悩んだりしたせいかもしれませんね。
如意岳 山頂
如意岳山頂には祠がありましたので、麦茶を供えてまずは手を合わせました。
まずは気持ちから手を合わせたわけですが、お参りも誰に拝んでいるのか分からないと意味がありませんよね。
中を覗き込みますと(ご神体はどこかに移されたようですが)祠の奥に「伊勢内外大神宮猿田彦大神」と刻んでありました。
猿田彦は地上の神様で、天孫降臨(天照大神様が孫の瓊瓊杵尊 ににぎのみこと を地上に送った)の際に、伊勢までの道案内を行ったことから、導きであったり道開きの神様とされています。
なるほど。あらためて手を合わせ、道をお開きくださいとお願いしておきました。
お参りも済んだことだし、山頂をウロウロして三等三角点を見つけました。左から書いてあるので新しいものですね。
あまり高い山ではないので、他の山を見下ろすという感じにはなりません。
美東の町と最後の写真は桂木山方向かな。
冷たいコーヒーで一服。
さて、草も多いしタバコは鉄塔まで降りてからにすっかね。
登りは足だけで踏ん張りましたが、下りは木を持ったり石に手をついたりが必要そうなので手袋をしておきました。
安全に家に帰るまでがハイキングです。みなさんもご安全に。
如意岳の埋蔵金伝説と戦国大名大内氏の終焉
さて、さて、すっかり埋蔵金の話を忘れておりました。
ネットでは如意岳の埋蔵金が大内氏最後の当主のお宝だなんて書いてありますが、違うんですよ。
ここで如意岳と戦国大名大内氏の終わりについて、お宝の代わりにちょいと掘ってみたいと思います。
大内義隆と如意岳
大内義隆は大内氏第16代当主。
勝ったり負けたりを繰り返しながら領土の維持拡大に努めたバリバリの戦国大名でしたが、出雲の尼子氏との戦いで心に傷を抱えて以降、対外的な戦いをやめて山口市に引きこもります。
時の天皇から冠位までもらって西の京と呼ばれる文化の育成に力を入れたのは良いものの、これが武断派の不興を買って、家臣の陶晴賢に追われ長門に逃げることになりました。
その際に持って逃げられない宝を如意岳の麓に隠したというのが今回の伝説です。
最終的に、大内義隆は長門市深川の大寧寺で自刃しました。
大内義長と勝山
大内義長は大内氏第17代、最後の当主。
大内義長は大友宗麟の弟で、若くして大内義隆の養子になるものの義隆に実子が生まれると「いらねー」と九州に送り返されてしまいました。
陶晴賢が大内義隆を葬り去った後に神輿として担ぎ上げ、本人もその状況が分かっていながら「必要とされるのであれば行く」と山口に死にに来た悲哀の殿様。
この頃から趨勢を伸ばしてきた毛利氏に陶晴賢が敗れると、神輿でしかない義長には求心力がなく、大内は衰退する一方に。
毛利氏が山口に侵攻すると、義長は高嶺城を放棄し、長門且山城(下関市の勝山)へと敗走。
忠臣内藤隆世が義長の助命を条件に且山城を開城し、義長は且山を出て長門長福寺(現在の功山寺)に入るも、すぐに毛利軍に囲まれ最終的には自刃。
ここに大内氏の系譜が終わる。
なので最後の当主の宝ってところだけは違うんですね。
大内氏の終焉に関わる山
山口市の高嶺城はこちら。
下関市の勝山はこちら。
陶晴賢の山城は周南市の若山で、車で登ったことはあるんですが、これもまた歩いてみたい山の一つです。その内、レポートしてみたいと思います。
最後に
西の京として繁栄の極みを迎えていた大内氏のお宝が未だに如意岳に眠っているとすれば、どえらいことです。
僕は見つけられなかったけど、あなたならきっと見つけられるはず。
もし見つけたら、ちょっとだけ情報量の分け前を頂戴ね(笑)