年末蔵出し第3弾。周防大島の大見山を後にして、午後から室津半島の皇座山に登ってきました。
皇座山は山口県百名山の一座で標高は526m。山頂には一等三角点もあります。山としては普通ですが名前の由来がたまらないんです。
皇の座する山、皇座山
皇座山の名前の由来の前に、歴史を少し紐解いてみましょう。
平安時代の終わりに皇室・摂関家を巻き込む政争が起こり、これを収めた平清盛は異例の出世を遂げます。
平安時代の終わりざっくりまとめ by 立石
平清盛は後白河院政を排除して自らの政権を打ち立てようとしますが、これに不満を抱いた貴族や各地の豪族が次々と挙兵。
平氏は東国武士を率いた源氏に西へ西へと追いやられることになります。
平氏の都落ちってやつでして、ここに安徳天皇が絡んできます。
実は安徳天皇は平清盛の外孫。清盛は孫を使って摂政を始めようとしたわけです。
平安の貴族は似たようなことをやっていたわけですが、武士がそれをやるのは許せない。
おまけに清盛の場合は、後白河法皇を幽閉してまで外孫を即位させたものですから、やり方が少々強引過ぎました。
1180年、安徳天皇は齢1歳2カ月にて即位するも、同年木曽義仲の入京に伴い、平一門に連れられ三種の神器とともに都落ちをします。
安徳天皇ざっくりまとめ by 立石
大宰府を経て1183年に高松の屋島に落ち着きますが、1185年、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)により屋島を追われ西走。下関の壇ノ浦の戦いにて平氏は全滅。
安徳天皇も祖母とともに入水し、齢わずか6歳4か月にてその生涯を閉じることとなりました。
源氏と平氏の政争に巻き込まれた悲哀の天皇、それが安徳天皇なのです。で、ここまではメジャーなお話。
ここからが皇座山の名前の由来になります。
実は屋島から壇ノ浦までの間にも別の戦いがあったのです。
源氏と平氏の屋島の戦いに続き、周防の戦いが柳井市池の浦(※室津半島の東側です)であり、安徳天皇は皇座山を越えて赤間関へと逃れました。皇座山を越えるときに安徳天皇が山頂で一休みされたため「皇の座する山」と言われるようになりました。
上関町観光協会
皇の座する山なので皇座山。ちなみに「こうざさん」ではなく「おうざさん」と読みます。
平安の歴史が山口のこの地に名前として残ってるなんて凄いじゃないですか。しかも平清盛の孫ですよ。
これは行ってみなきゃでしょ。
皇座山の入り方
皇座山のある室津半島は西半分が上関町、東半分は柳井市と別れています。
皇座山には上関側から車で登ったことがあるのですが、どうやら柳井側には登山口がある模様。
10月31日、登山口を探して皇座山に行ってきました。
室津半島の東側、山口県道72号柳井上関線を走っていますと、右手に相ノ浦集会所があります。地区名としては柳井市阿月相の浦ですかね。
事前の調べでは皇座山登山口はこの近くのはずなのですが、あいにくこの日は衆議院議員総選挙をやっていまして、投票所となっている集会所に車を停めることができませんでした。
集会所のおじさんに聞くと、たしかに皇座山の登山口は相ノ浦集会所の一つ手前の坂を登っていけばあるとのこと。取り合えず登山口を見にいくかと車で登ってみることにしました。
狭い道を車で登ると、坂の途中に法恩寺様が見えます。
ダメもとでピンポンし、皇座山に登りに来たのだけれども車を停めさせて頂けないかとご住職にお願いしたところ、快諾をいただきました。この時点で14時前でして、今から登るなら気を付けて行ってきなさいよとのご心配までいただきました。大変にありがたいことです。
仏様に手を合わせて出発。
浄土真宗本願寺派重精山法恩寺様から坂を登ること数十m、皇座山登山口に進むには、石垣を左です。
石垣には小さな小さな道標が出ています。僕らはこれに気が付かずに坂の上まで登ってしまいました。
道が分からずに下ってる最中、畑仕事のおじさんが「皇座山はこっちだぞ」と教えて下さいました。
ありがとうございます。
畑の横を抜け舗装路を歩いていますと、右手に皇座山登山口の小さな道標があります。
これも小さいので見逃さないように注意が必要。
皇座山登山
時刻は14時。10月末でまだ陽は長いのですが、帰りは陰側を歩くようになります。
升井君と話し、1時間で登って山頂で10分遊んで40分で降りようと計画しました。そのため今回の写真は少なめです。
山肌を回りながら左へ左へと進むようになります。木立の間から左手の上にちょいと高い山が見えるので、あれが目指す皇座山でしょう。
僕らこのピンクリボンをケムンパスさんと呼んでいます。ケムンパスさんは山口県東部の山々でリボンを結びまくってくれてる方です。お会いしたことはありませんが、ありがとうございます。
大き目の枯れ沢を登って行くと、何かの石積みに当たります。中は窪地になっているのですが、なんの遺構なのかは分かりません。
ここを左に取るとしばらくして直登が始まります。
ガレを直登するとその内に空が抜けてきます。頂上が近い印です。
ほぼ平らな道になると林の切れ目に明かりが見えてきました。
林を抜けると舗装された遊歩道が出てきてがっかりなのですが、この遊歩道は上関側から車で登って来た時の駐車場につながる道なのかもしれません。
正面が登りになっているので、そちらが山頂だろうと判断しそのまま直進しました。
変な植物を見つけて喜ぶ升井君。「升井が見つけた升井の実」と命名していました。
※ マムシグサの実です。有毒です。
ここで時刻は15時。もうすぐ山頂と思われますが、ほぼ予定通りの行程のため、気持ちに少し余裕が出てきています。
皇座山山頂
皇座山の山頂に到着しました。
草の向こうにわずかに白い看板が見えます。行ってみましょう。
こちらが皇座山山頂の看板。追われたとは言え時の帝が座した山ですよ。なんだか寂しいなあ。
草木が覆っていて残念ながら景色もありません。駐車場側に回り込めば展望台があるとも聞いていますが、時間がないため今回は行かずじまい。
そして、皇座山山頂の一等三角点がこちらです。
皇座山の一等三角点、基準点名は室津山です。室津半島だもんね。分かりやすくて良い。
あまりに草にまみれていたので、少しだけ草抜きをしておきました。
皇座山下山
下りに思いのほか時間がかかってしまいました。午前中に周防大島の大見山を歩いていたことや、皇座山のガレの下りで膝を酷使したことが効いてしまったようです。
この後、車を置かせていただいた法恩寺様に寄り、無事の報告と駐車のお礼をし、仏様に手を合わせておいとましました。
時間的にはギリギリだったかなあ。室津半島東側からのルートは午前中に入ると明るくて良いと思います。
今日のルートとまとめ
皇座山は距離もなく斜度も最後の直登を除けばさほどでもありません。道中は枯れ沢とガレが続くため、下りは膝に負担がかかります。幼い天皇がこの道を歩かれたのだとすれば、大変なご苦労であったことだろうと推測いたします。
そう言えば「安徳天皇 山口県」というキーワードで検索すると下関ばかりが引っかかるんです。平家物語・源平合戦とくれば壇ノ浦が物語のピークですし、下関には安徳天皇を祀る赤間神宮もありますから、それも分からなくはないのですが…
昔の人が名付けたこの「皇座山」という山名には、幼き悲哀の天皇への鎮魂の意が込められている気がするんです。誰かが覚えていてくれることがその人が生きた証。なので、今日はこれだけ覚えて帰ってください。
平清盛の孫 安徳天皇が座した山 皇座山
それじゃまた。