西鳳翩山と東鳳翩山の間にある「地蔵峠」を目指して車を走らせておりましたら、右手に人造の丘陵を見つけました。
棚田にしては大き過ぎます。
ありゃ何だろうなあ?
左手に駐車場がありましたので、車を停めて行ってみることにしました。
駐車場から細い道へと入り、民家と生垣の間を通って小川を渡ると、いきなり景色が開けました。
おお!なんか凄いな。
とてつもなく大きな古墳に見えますが、小道の入口に「凌雲寺跡」とありましたので、お寺さんであることだけは分かっています。
目の前の石段がとても良い雰囲気を醸していますね。登ってみましょう。
石段を登りきったところに大きな看板がありました。ちょっと長いのですが書き写しておきますね。
国指定 史跡
大内氏遺跡・凌雲寺跡 看板
大内氏遺跡・凌雲寺跡
昭和三十四年十一月二十七日指定
凌雲寺は、大内氏三十代義興を開基、了庵桂悟を開山として永正四年頃(1507)この地に創建されたと伝えられています。廃寺の年月は不明ですが、おそらく大内氏滅亡の後、いつの時代にか廃されたものと思われます。
寺は舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注目すべきは大地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構として伝えられ、長さ約六十メートル、高さ三メートル余りで、幅は二メートルあります。
巨岩をもって築かれた豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城塞の役を兼ねたものかと思われます。
指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその夫人の墓と称する石塔三基が残っています。
ほほー。大内義興の墓所でしたか。お墓なので写真に残しませんでしたが、確かに石段の正面に大小3基の石塔がありました。
ここで、大内義興についてさらっとまとめておきましょう。
大内義興
大内義興についてさらっとまとめてみました by 立石
大内義興は大内氏第15代当主で16代義隆の父。14代政弘からの家督相続はすんなりいったが、お家騒動や近隣との戦いに手を焼く。
大内義興は後に西国の覇者となるが、その転機となったのが細川政元に追われた前将軍 足利義稙(あしかがよしたね)を山口に迎え入れたこと。
これが朝敵と見なされまたもや近隣に攻め込まれるが、毛利らの援軍もあって凌ぎきると、細川氏の内紛に付け込み、足利義稙を奉じて上洛。
義稙を将軍職に復帰させると、自らも管領代(将軍の補佐役)に付き、細川高国と共に室町幕府の中心として幕政を執り行った。
とまあこんな感じ。大内最期の三世代、義興-義隆-義長の流れは栄枯盛衰を感じさせます。ここを中心に歴史ものを読むと面白いです。
さて、ここからは凌雲寺の規模感について言及してみましょう。
さて、惣門とは「城・寺・邸宅などの建物の敷地の外郭に構える正面の門」のことです。
石塔からその惣門に向かう途中に振り返ったのが上の写真で、山の手前に見える石垣が先ほどの石塔のあたりです。どうですかこの規模感。伝わんない?
山城が主流の時代にこれだけの規模の城郭を成すなんて、大内義興の力はやっぱすごいと思うんだけどなあ。
それじゃ、上の写真と同じ場所から、今度は惣門の方向を眺めてみました。
ひろっ!
これなら規模感伝わりますかね。惣門の向こうにもまだまだ台地上に広がった土地がありまして、この広さ室町時代のお城なら国内最大級じゃないですか?
なんつーか僕は「山口市に城らしい城なんかない」なんて思ってましたが、自分の不明を恥じ入るばかりです。
もう寺ではなく絶対に城だと思い込んでますw
そんなこんなで惣門までやってきました。
この惣門は石垣でできてまして、地形を利用しながら石垣が階段状に連なっています。
城、城と決めつけてきましたが、当時、この門から奥にずーっと寺社が建っていたのであれば、それはそれで凄まじいものだったでしょうねえ。
凌雲寺はバスも入りにくい奥まったところにあるので、観光地としてはあまり取り上げられてないかもしれませんが、この規模感、爽快感、歴史も含めて、ものすごいパワースポットに違いないと思います。
一度確かめてください。お薦めです。
大内義興―西国の「覇者」の誕生
明治維新よりもずいぶん前に中央に躍り出て執政した大内義興。一度朝敵となりその後に盛りかえして中央の政治を執るというのは長州の地域性なのでしょうか。不思議な歴史の繰り返しですねえ。
凌雲寺跡はかなり手入れが行き届いていました。ここまで手をかけるならもっと観光スポットとしてプッシュするべきだと思います。
僕からすると凌雲寺は、元乃隅神社よりもよほど歴史と爽快感、規模感があると思うんですよね。
ホント行ってみて。圧倒されるから。