下関散策~動けば雷電のごとく

下関散策~動けば雷電のごとく

竜王山を登ったついでに下関の功山寺、東行庵を散策してきました。
今回の記事は高杉晋作に焦点をあててみます。

動けば雷電のごとく

下関といえば高杉晋作。こちらは東行庵にある高杉晋作顕彰碑です。

高杉晋作顕彰碑@東行庵
高杉晋作顕彰碑@東行庵

動如雷電 發如風雨
衆目駭然 無敢正視者
此非我東行高杉君哉…

動けば雷電の如く発すれば風雨の如し
衆目駭然、敢えて正視するものなし
これ我が東行高杉君に非ずや

伊藤博文が高杉晋作の死後に贈ったあまりにも有名な言葉です。

松下村塾において久坂玄瑞と並ぶ英俊とされた高杉晋作。同じ時期に塾で学んでいた年下の伊藤博文(利助、春輔)は、英国大使館焼打ち、英仏蘭米四国艦隊との交渉、藩内俗論派2,000に対する功山寺決起など晋作が難局を迎えた際には常に行動を共にしています。

時代と思想に飲み込まれたか(単に晋作に引きずり回されたとも言えますが)いつ死んでもおかしくない状況で常に真っ先に駆けつける伊藤はよほど晋作のことが好きだったのでしょう。

これを踏まえて碑文を現代風に訳すと以下になります。

動けば雷、喋れば嵐
くそびっくりして目も当てらんねー
あれが俺の兄貴だぜー

(伊藤翁ラップ🤣

で、今日のビックリ‼️なんですけど、僕はこの名文が石碑に大きく書いてあるものとずっと思ってたんですよ。結果はご覧の通りでして。この名文の後に高杉晋作の生涯が延々連ねてあります。
これ伊藤が晋作に贈った弔辞だったんですよ。いや知らなかったなあ。

それでは「動けば雷電の如く」という高杉晋作の活躍を見ていきましょう。

功山寺

下関市長府の功山寺はやたら山口県史に出てくる古刹です。

功山寺の楼門
功山寺の楼門

功山寺は1327年に臨済宗金山長福寺として創建。足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬厚く隆盛を誇りましたが、1557年大内最後の当主大内義長が当地で自刃。この戦乱により寺は一時荒廃しました。

その後、長府藩祖毛利秀元が旧観に復し曹洞宗へと転宗。長府毛利家の菩提寺となり秀元の法号である知門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称したそうです。

なんて堅い話はともかく功山寺決起です!

明治維新の少し前

功山寺仏殿
功山寺仏殿

八月十八日の政変で京都守護を解かれた長州は攘夷派の公家と共に都落ちをします。これがいわゆる七卿落ち。

なんとか帝の誤解を解こうと再び京に登った長州軍は御所に砲を向けたことから朝敵となってしまいます。

第一次長州征伐が迫る中、藩内は幕府恭順派が優勢となります。幕府側の指令西郷隆盛の斡旋のもと五卿が九州に送られることになりました。

五卿西下潜居の間
五卿西下潜居の間

その時に五卿が逗留したのが功山寺です。

迫り来る幕府軍!権謀術に長けた西郷!藩内の恭順派に押された長州はそして毛利家は滅亡してしまうのか!

功山寺決起

余に一頭の馬を貸せ。余はこれに乗って君公の急に赴くべし。

高杉晋作の功山寺決起
高杉晋作の功山寺決起

西郷との密約があり第一次長州征伐を退けられることが分かった高杉晋作は幕府恭順派との戦に立ち上がります。

しかし奇兵隊を率いる山縣有朋の説得が叶わず、晋作は遊撃隊と力士隊のわずか80名をひき連れて雪の降る功山寺へと向かうことになりました。

夜半の功山寺で「暇乞いにまいった」と五卿を叩き起こし公家の三条実美を前に

これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく

と大見栄を切りました。

実は晋作、功山寺の決起前にもし死んだら戒名はこれこれにしてくれーと懇意の政商白石正一郎(の弟)に手紙を渡していました。正に決死の覚悟だったのです。

藩正規軍にどうやって勝ったのか

80名での挙兵に対する藩正規軍は2,000。わずかな手勢で決起した晋作はどうやって藩正規軍に勝ったのでしょうか。

晋作はまず警備の手薄な新地の長州藩会所を占領し、返す刀で三田尻に向かい軍艦を無血で手に入れました。
これ正に動けば雷電のごとく。

一方、伊藤博文は「幕府に媚び正義を幽閉する恭順派を討ち、毛利の正義を世に知らしめるのである」と下関市内に檄文を飛ばします。これに割をくっていた諸隊が呼応。

軍勢を増やしつつ美祢の太田に進軍すると風見鶏の山縣有朋もやっと重い腰をあげて奇兵隊を率いて参戦してきました。

そして軍備と気勢に勝る正義派が絵堂の戦いを制し、ついに萩を包囲となったのです。

この後、幕府恭順派の重鎮が弾劾され、長州は武備恭順路線(幕府に従ってるフリして薩摩経由でエゲレスの武器買うよー)へと転換していくのでありました。

功山寺決起の余録

陸軍卿の強いイメージがある山縣有朋ですが、功山寺決起に参加しなかったことを伊藤博文から終生いじられ頭が上がらなかったようです。これが初代総理大臣伊藤博文だよwww

吉田松陰から「あんま才能ないかもね」と言われ「政治家に向いてるかもね」と言われた男。高杉晋作や桂小五郎についていった男。女癖が悪すぎて新聞記事にまでなった男。足軽の下の位である中間から初代内閣総理大臣にまで昇りつめた男。伊藤もなかなか面白い。

その後の高杉晋作

第二次長州征伐でも高杉晋作は大活躍しますが戦いの最中に吐血。肺結核だったようです。第二次征伐は将軍家茂の急死といったラッキーも重なり退けることができましたが、晋作は病状の悪化とともに桜山の東行庵に籠り、そのまま帰らぬ人となります。

享年29歳(満27歳8ヶ月)あまりにも若すぎる死でした。

東行庵

ここからは晋作の死後のお話し。晋作の墓所となる現在の東行庵は下関市吉田にあります。

東行庵入口
東行庵入口

東行庵はもともと山縣有朋の草庵(無鄰庵)なのですが、明治2年、出家していた晋作の愛人ウノに山縣が譲ったとのこと。その後、ウノは東行庵で生涯晋作を弔いました。

東行庵
東行庵

現在の東行庵は明治17年に伊藤・山縣・井上馨ほか全国諸名士の寄付によるもので、その建屋がかなり新しく見えるのは昭和41年にも大修理が行われたからです。

高杉晋作墓所
高杉晋作墓所

さて、桜山で亡くなった晋作のお墓がなぜ桜山でも故郷の萩でもなく下関市吉田にあるのでしょうか。これは「馬関と萩の間に葬って欲しい」との晋作の遺言によるものです。

これを、死してなお馬関の鎮守となるべく志を貫いたと見るのは感傷に過ぎるのでしょうか。

奇兵隊隊士のお墓
奇兵隊隊士のお墓
高杉晋作像
高杉晋作像

高杉晋作は志半ばに倒れましたが、その後、維新を生き抜いた若者たちは明治政府の重鎮となり日本国を近代化へと導いていきました。

面白きこともなき世におもしろく
面白きこともなき世におもしろく

面白きこともなき世におもしろく(晋作)すみなすものは心なりけり(望東)

動けば雷電の如く発すれば風雨の如しと評された男、高杉晋作。士分にありながら平民を駆り立て封建制度を瓦解させた男が病床にて詠んだ句には「まだまだやりたいことがあるのにのう」との意が汲み取れます。もはや叶わぬことと知りながら「それはお心次第ですよ」との望東尼の優しい返歌が心に沁みます。

晋作餅
晋作餅

しんみりしちゃいましたね。なので最後は美味しいものでも。こちら東行庵の駐車場で売られてる晋作餅です。ほんのり紫蘇の風味がウマウマ。おばちゃんも愛想が良いのでぜひ寄ってあげてね。これステマじゃないから。

それじゃまた。

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