【広島県】福山城

【広島県】福山城

日曜に広島でセミナーがあったのでちょいと足を伸ばして福山市に一泊。福山でのお目当ては新幹線のホームからも見える福山城です。再建が多いけどなかなかの歴史。城のある街は良いですなあ。

福山駅

朝の福山駅
朝の福山駅

総人口45万人。非県庁所在地の都市圏としては全国5番目の規模を誇る福山市。広島県では広島市(120万人)に次ぐ街。

なんだけど、朝ホテルでのんびり過ごしていたもんで、9時前ともなれば駅前はこんな閑散とした感じです。

もうみんな会社に行ってる時間だよね。ごめんね、なんか僕平日遊んでて。

駅中を抜ければもうお城
駅中を抜ければもうお城

さて本日の目的は福山城。繁華街側から駅に入って駅中を抜ければもうお城です。ちらっと見えるのは月見櫓かな。

石垣の外には広場が設けられていましてベンチやテーブルがありました。有閑マダムや早朝ランナーたちがテーブルでおしゃべり中。優雅やねえ。うらやましいわ。

福山城登城案内図
福山城登城案内図

福山城登城案内があったのでじっくり見ます。うーむ。駅前から左に行って伏見櫓、筋鉄御門に登り、御湯殿、月見櫓を外から見てそのあとで正門から中に入っていくことにしましょう。

福山城

駅前の道を左に進めば筋鉄御門(正門)への登り口。めっちゃ分かりやすいです。

登り口
登り口
一段目の石垣
一段目の石垣

登り口の横の石垣がさっそく綺麗じゃないですか。これは竹田城でも見た算木積(直方体の長辺と短辺を交互に組み合わせるジェンガみたいな積み方)ですね。非常に分かりやすい。

福山城の南側からは三段の石垣がありまして、三之丸の石垣を含めて「一二三段」と呼ばれているそうです。これは丘陵の斜面を利用した平山城特有のものとのこと。

とりあえず一段目を堪能しました。よきかな。

一段上

伏見櫓
伏見櫓

坂を上って鍵字を右に振り向くと伏見櫓がお出迎え。伏見櫓は1階と2階の幅が同じという不思議な形でなんだか中華の楼閣みたいです。

筋鉄御紋をちら見
筋鉄御門をちら見

筋鉄御門をちらっと見てそのまま外を回ります。福山城は石垣の三層構造でそれぞれの段が歩けるので外と中から城郭の建物を楽しめるんです。筋鉄御門は後にして一段上の層を先に進みます。

御湯殿を外から
御湯殿を外から

御湯殿は伏見城から移建されたといわれる建物。こんな張り出しは見たことないね。石垣の上に張り出した「懸造」と呼ばれる建築方法は福山城以外では仙台城にしかない珍しい造りらしいです。

月見櫓
月見櫓

南東の角、御湯殿の向こうに見えるのは月見櫓。なんだっけ。殿様が城に戻ってくるのを見張る場所だったかな。

こちらも京都伏見城内から移築したものとのことですが、明治初頭の廃城令で壊されたので現在のものは1966年秋に天守閣とともに再建されたもの。

鏡櫓
鏡櫓

角を曲がって下から鏡櫓。南東隅の月見櫓から北に延びる堀でつながれ6間と4間の広さを持っていたという話。月見櫓と同じく廃城令で取り壊されましたが1973年に外観を復元。現在は福山城博物館の文書館になっています。遠めの雰囲気はよろしい。

このまま行くと横から入るようになるので正門の筋鉄御門まで戻って入城します。

筋鉄御門
筋鉄御門
筋鉄御門
筋鉄御門

鉄筋と勘違いしそうな筋鉄御門。こちらが福山城の正門になります。

筋鉄御門
筋鉄御門

筋鉄御門は、柱の角と扉に数十本の筋鉄をうちつけているためその名が生まれたといわれています。築城当時の姿を今に残すこちらは重要文化財。

二段上

筋鉄御門をくぐれば天守が見えるのですが、メインディッシュは最後に取っておいてまずは二段上の建物を内部から見て回ります。

御湯殿
御湯殿

さっき下から見た木の張り出しが面白い御湯殿。「おゆどの」って不思議な名前ですがもとは蒸し風呂だったらしいですよ。こちら伏見城から移建された建物ですが、明治以降は料亭として使われていたため湯殿の名残はないとのこと。

御湯殿の良いとこは料亭として使われていたので廃城令を逃れたこと。残念なのは福山空襲で焼けてしまったこと。現在の建屋は当時の資料を元にした再建したものだそうです。

御湯殿の戸
御湯殿の戸

再建なんだー。御湯殿は現在は貸館になっていると書いてあったので「ここで宴会ができるんかい?」と観ながら歩いていると、雨戸の装飾に目がいきました

はっ?えっ?

五七桐…?
五七桐…?

これ五七桐っすよね。五七桐って天皇家の家紋もしくは天皇陛下から為政者として認められた者が使う紋だったはず。一介の田舎大名が使っていい御紋じゃないはずですが。

どういうこった?

御湯殿は京都伏見城からの移設なので豊臣秀吉かなあとも思うのですが、伏見城って一回焼けて徳川家康が再建したんじゃなかったっけ?

現在の御湯殿の再建がいつなのか逸しましたが、もしかしたら再建後に天皇陛下が来られたってことなのかなあ。伊藤博文も明治天皇から灯篭もらってたし。

この五七桐だけ分かりませんでした。識者の方に教えてもらえると幸いです。

月見櫓を二段上から
月見櫓を二段上から

こうなると俄然家紋に興味がわきます。瓦には家紋が現れますから、月見櫓の瓦の先を一生懸命見たのですがこちらは水野家の家紋「おもだか」でした。

月見櫓はかなり新しい感じなのでなんとも言えませんが、ふつうです。

鏡櫓を二段上から
鏡櫓を二段上から

鏡櫓は1973年に外観を復元。現在は福山城博物館の文書館になってるとのことで、なんていうか新しすぎて趣がなく一段目から見るほうがいい感じです。

正面に福山城天守
正面に福山城天守

筋鉄御門をくぐった二段目はだだっぴろい広場なので、福山城の天守はずーっと目に入っています。さっきの鏡櫓から天守までは20mもないのですが、その前にここまで見過ごしていた建物を先に回ろうと思います。

ショートケーキのイチゴは最後に食べるタイプなのでもう一度、筋鉄御門のほうにもどります。

鐘櫓(かねやぐら)
鐘櫓(かねやぐら)

こちらは駅から坂を上がってきたときに筋鉄御門のすぐ向こうに見える鐘櫓です。位置的には本丸の西側、伏見櫓の裏になります。鐘を釣り太鼓をかけて時の鐘と半時の太鼓を打っていたという櫓です。なんか銀山に人手を出すのに太鼓打ったって聞いた気がするのですが忘れました。すんません。

二段上から見る筋鉄御門
二段上から見る筋鉄御門
二段上から見る伏見櫓
二段上から見る伏見櫓

最初のほうにも出てきましたが、こちらは1階と2階が同じ幅の伏見櫓。廃城令での取り壊しを逃れ、福山空襲も逃れた国の重要文化財だそうです。昭和の修理の際に二階の梁から「松の丸東のやぐら」の刻字がみつかったことから、伏見城からの移築であることが立証された一品。

でもちょっと地味。なんだろ。筋鉄御門とか伏見櫓とかチャイナっぽい造りなのに白壁で間延びしてる気がするんですよね。時代考証的に正しいとしても。

よし。二段上はだいたい見終えた。次は天守閣を攻めるぜ!

福山城天守閣

福山城天守閣
福山城天守閣

福山城天守閣、もうさっきからずーっと見えててさ。格好いいのよ。

福山城天守閣(正面)
福山城天守閣(正面)

さあ、いくぜ。福山城の天守閣は福山城博物館になってて9時から17時まで登れるんですよ。

殿のおなーりぃー
殿のおなーりぃー
え、休館日?
え、休館日?

え、休館日? そう。福山城の天守閣・福山城博物館は毎週月曜が休館日だったんです。近くにあるすべての付帯施設も同じく月曜休館です orz…

あのー火曜とか水曜に比べると月曜日は観光客が多いと思うんですよ。くやしいから言うんじゃないけど広島城あたりにも曜日ごとの来館者数を聞いたほうがいいですよ。ホントくやしいから言うんじゃないけど。ね。休館日については再考をお願いします。

ま、そんなわけで中に入れなかったので、この先は福山城の雄姿を外からご覧ください。

福山城側面
福山城側面
福山城裏を北東から
福山城裏を北東から

白壁が一転黒に!なんだこりゃ。

丘陵の斜面を利用した平山城、三段の石垣と広々とした城郭内が美しい福山城ですが、斜面を利用したがゆえに標高が高い側の北からの守りが弱い。それを克服するために北の壁面はかつて鉄板で覆われていたとのこと。

福山城天守北面
福山城天守北面

それを去年(令和の大改修で)鉄板を復刻したとのことで、まだモノが新しいせいか僕には「ホテル福山城」に見えてしまいました。ちょっとラブホ感あるじゃん。ね?

福山城裏を北西から
福山城裏を北西から

いやくさしてるわけじゃなく。格好いいんですよ。これからもこの形で歴史を紡いでいくんだろうし。あくまで今時点の僕の感想ということで。博物館に入れてくれなかったから感想くらいしか言うことないんだもん。

城外から天守閣
西から天守閣

福山城の天守を回り終えて、ここからは少し真面目に歴史も掘っておきます。

福山藩の初代藩主は徳川家康の従兄弟(いとこ)にあたる水野勝成。水野勝成は16歳の初陣で15も敵首を取り、信長から「比類なき活躍」と称された男です。

空にそびえる黒鉄の城
空にそびえる黒鉄の城

21歳の時に父親の忠臣を切り勘当され放蕩の旅を続けますが、36の時に家康の仲立ちで父と和解しその所領に戻ります。ところがその直後に父親が石田三成側に殺されてしまうのです。

城外から天守閣
城外から天守閣

父が殺されたので勝成は刈谷藩(愛知県刈谷市)を相続します。勝成はその後も数々の戦いで功績をあげ、そうした活躍から「西国の外様を見張れ」とのお達しを受け1616年に福山に入りました。

外を回って鐘櫓(かねやぐら)広い城です
外を回って鐘櫓(かねやぐら)広い城です

関が原以降は新たな築城が禁止されていたのですが、水野勝成は西国鎮衛の役目からこれを例外的に認められ福山城の建設に着手しました。この例外は西国鎮衛ももちろんですが徳川家康の従兄弟だったことが大きいでしょう。伏見城(1616に廃城)から数々の櫓をもらえたのも姻戚関係がキーになっていると思われます。

そして勝成はわずか3年で福山に10万石とは思えない城を完成させました。

福山城
福山城

もう少し掘って、次は年次に出来事を追ってみます。

1616 徳川幕府から水野勝成が入封
1620 築城開始
1622 福山城完成。地名を福山とする
:
1873 明治の廃城令にて廃城
1931 天守が国宝指定
1933 伏見櫓、筋鉄御門が国宝指定
1945 福山空襲にて天守等が焼失
1966 天守、御湯殿、月見櫓を再建
2022 令和の大普請にて天守外観復元

歴史も素晴らしいと思いますが近年に改修が行われていることも素晴らしいですね。これは福山城が福山市民にとって生まれた時からある公園であり、また心のよりどころとなっている場所だからだと推測します。

福山城
福山城

1616年に水野勝成が入封して以降、歴代藩主の変遷については以下になります。

福山藩水野家が水野勝成、勝俊、勝貞、勝種、勝岑の5代。
福山藩松平家が松平忠雅で1代。
福山藩阿部家が阿部正邦、正福、正右、正倫、正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓で10代。

水野家は初代勝成の意思を継いで福山の発展に寄与しましたが、五代目の勝岑が2歳で死去したために改易となりました。

その後は幕府領を経て松平に継がれますが1年で転封。以降160年間、阿部家が福山を見ることになります。福山城内に建てられた銅像を見る限り福山市的には、初代水野勝成と阿部家7代目の阿部正弘の両名を押していらっしゃるようです。

これまで出てこなかった阿部家7代目阿部正弘ですが、幕末期に老中を務めペリーの日本開国要求に際して諸藩に意見をもとめた人です。

開国か攘夷かで国内が揺れた時代。しかし江戸開闢以降、外様に意見を求めるなどはあり得なかったわけでして、これを民主政治の始まりと捉えるかどうか。長州はこれを幕府の弱腰ととらえるのでした。

うーむ。こんなところにも明治維新の一端があったか。

お得情報

福山市ローズガーデンホテル
福山市ローズガーデンホテル

今回お世話になったローズガーデンホテルさん。福山城までまで歩いて5分の立地、駅を挟んで繁華街とは反対の方向にある静かなホテルです。

こちら当日夕方の飛込でも大変丁寧に対応してくださいましたし、また午前中の福山城見学であれば駐車場に車を置いておいて良いとも。

立地もサービスも満足ですが、受付の美人さんだけでも見行く価値ありのホテルだと思います。
定宿にしよう。

それともう一つ。こちらは本当にお得情報。福山城の警備さんとお話をしていたところ、11月3日(文化の日)は福山城の天守閣・福山城博物館が入館料無料になるそうです。
福山城に行かれるなら11月3日が間違いなくお薦めですよ。

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