所用で豊田町に。去年、華山を登った際、西の嶽にある仲哀天皇殯葬所に寄れなかったので、今回少し足を延ばして車で簡単に行ってきました。
仲哀天皇殯葬所への最も簡単な入り方
狗留孫山から県道262号線を巡るのが仲哀天皇殯葬所への最も簡単な入り方です。
県道262号線は狗留孫山から華山を越えて豊田町へと通じる道です。
去年、華山に登った際に豊田町側に降りる道が通行止めとなっているのを見ましたので、今回は狗留孫山側から上がりましたが結果的にこれは正解でした。
262号線の豊田町側はとにかく道が狭いので、普通車だと厳しい気がします。まあ、狗留孫山側から登っても山側はグリの落石、谷側はガードレールなしとあまり良い道ではないのですけれども。まだマシといったところ。
駐車スペースは華山山頂手前の道のわきにあります。ほとんど誰も来ないのでドーンと停めても問題ないでしょう。
この駐車スペースから振り返ると舗装路の三叉路があります。この三叉路の真ん中の階段から山道に入っていきます。
仲哀天皇殯葬所へ
階段から仲哀天皇殯葬所までは約600m。傾斜もきつくなくよく踏まれた道でした。行ってみましょう。
県道262号線を登っている途中に鹿を見かけたり、熊目撃情報ありの看板を見かけたため少々ビビっていたのですが、林間歩道4号はとても静かな道でした。
そして森を抜けると鳥居の向こうに仲哀天皇殯葬所が現れます。
仲哀天皇殯葬所
綺麗に刈られた山頂に大きな鳥居と祠。なんて美しい景色なんでしょう。山道から抜け出て突然こんな景色に出会ったらもうたまりません。
ご挨拶をした後に正面からの景色を撮らせていただきました。
鳥居の扁額には櫻井八幡宮とあります。仲哀天皇殯葬所をGoogleMapsで検索すると桜井八幡宮御陵鳥居とも記されています。
仲哀天皇殯葬所
仲哀天皇殯葬所の看板より
第14代仲哀天皇(西暦250年頃)は、熊襲征伐される途中で賊の流れ矢に当たり御落命されたが、神功皇后はその喪をかくして熊襲征伐を続けられた。そのとき、天皇のご遺体をこの「西の嶽」に葬り戦勝を祈願されたと伝えられています。
殯葬とは死者を仮に納めて置くことです。こちらはあくまで殯葬所。仲哀天皇の天皇陵として宮内庁に正式に認められているのは、大阪府藤井寺市にある前方後円墳、惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)のようです。
宮内庁のリンクを張っておきますので気になる方は以下をどうぞ。
仲哀天皇から徒然に検索
せっかく仲哀天皇に触れたので、そこから徒然に検索したことなどをまとめてみます。
仲哀天皇
まずは仲哀天皇のWikipediaから。
仲哀天皇は日本の第14代天皇。時代は伝承の時代(古墳時代、大和王権)で、日本皇帝系図に拠れば容姿端正、身の丈一丈(=3m)とのこと。身長3mなんて聞くと途端に神話のかほりがしてきますが、それもそのはず、仲哀天皇の父親は日本武尊(やまとたけるのみこと)だったりします。
日本の神話といえば古事記や日本書紀ですね。先の看板では仲哀天皇の熊襲征伐が250年頃となっていましたが、古事記の編纂は712年、日本書紀は720年といずれも奈良時代になります。500年前の話なんて神話や伝説になるのは当たり前ですね。
古事記は712年(奈良時代)の編纂。天地開闢に始まる神代から推古天皇(593年、日本の第33代天皇、女性天皇)の時代に至るまでの神話や伝説が主。出雲神話を重視。
日本書紀は720年(奈良時代)の編纂。天地開闢に始まる神代から持統天皇(690年、日本の第41代天皇、女性天皇)までを扱う編年体の歴史書で、原則的に歴代天皇の系譜・事績を記述。
なお、3mの大男が本当にいたのか。天皇の実在性についてはまとめたページがありましたので下記に譲ります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
仲哀天皇の父親が日本武尊であることが分かりました。ヤマトタケルノミコトは超有名で名前を聞いたことはありますが、実際なにをした人なのかよく知りません。
なんとなく神話っぽくてスサノオノミコトと同一視していたのですが、今回ざっと調べてみましたら「熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄」なのだそうです。大和王権の正当性を示すための神話の方といったところでしょうか。
東国征討を果たしながらも異郷に倒れ故郷を思って詠んだ歌が良いです。「やまとは くにのまほろば たたなづく あおかき やまごもれる やまとし うるわし」最後の「倭し麗し」ってどこかで聞いたことある気がします。
ところで、なんとなーく同一視していたヤマトタケルノミコトとスサノオノミコトには意外なところで接点がありました。三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
Googleで 三種の神器の一つ 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を検索すると天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)がトップに出てくることに驚きます。実はこの2つは同じものなのでした。
天叢雲剣のWikipediaからその変遷を簡単にまとめてみます。
- スサノオが出雲でヤマタノオロチの尻尾から天叢雲剣を取り出す。
- スサノオはこれを高天原にいる姉のアマテラス(天照大神)に献上。
- 天孫降臨の際、アマテラスは孫のニニギに三種の神器を持たせるがその一つが天叢雲剣だった。
- 初代天皇、神武天皇はアマテラスの五世孫
- 崇神天皇(第10代)の時代に神器と一緒に住むのは畏れ多いということで天叢雲剣の形代が造られ、形代は宮中に、本体は伊勢神宮に納められた。
- 伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに天叢雲剣を託す。(ヤマトヒメにはアマテラスが神憑り、ヤマトタケルの前世がスサノオであると語ったとされる)
- ヤマトタケルは敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い脱出した。これにより天叢雲剣は草薙剣と名付けられる。
- ヤマトタケルは病に倒れ、草薙剣は名古屋・熱田神宮に祀られた。
- 形代は壇ノ浦の戦いで安徳天皇(第81代天皇)と共に関門海峡に沈んだため、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を草薙剣とした。
- 現在、この草薙剣は宮中に祀られている。
天孫降臨で瓊瓊杵尊が降り立った場所は宮崎県の高千穂町(県北)と高千穂峰(県南)の二説ありまして、(霧島神宮は行ったことがありますが山には登らなかったもんで)どちらも行ってみたいところです。
また平家物語には「八頭八尾の八岐大蛇はスサノオに奪われた霊剣を惜しむ気持ちが深く、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった。」という記述があるそうです。
仲哀天皇を調べていたら安徳天皇に繋がってしまいました。面白いなあ。
仲哀天皇も壇ノ浦を見ておられるのです。
県道262号線を下山
仲哀天皇殯葬所を拝観したあと県道262号線を豊田町方向に下山してみました。
去年、華山を歩いた時には県道262号線は中宮付近から通行止めになっていましたが、今は解除されています。
こちらからは豊田町方向に降りるのだろうと想像できますが、通ったことがないので行ってみることにしました。
県道262号線はやがて県道6号線に繋がり、道の駅西の市から下関に寄ったセブンイレブン近くの交差点に出てきますが、正直華山を下りきるまではこの道は狭く行き違いに苦労しそうなのでまったくお薦めできません。
やはり仲哀天皇殯葬所に車で入るなら狗留孫山経由がお薦めです。
以上、仲哀天皇殯葬所(ちゅうあいてんのうひんそうしょ)のお話でした。
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