福山城を堪能した後に下道を使って尾道へ。福山から尾道は12kmくらいでめっちゃ近いんですよ。で、尾道に着いちゃえば広島までは100㎞ないくらいです。
尾道・広島間の下道は走ったことなくて、2号線を適当にいけば広島に着くのは分かってるし一丁行ってみっかー。
Zoom Zoom Zoom 走る 喜びー♪
(中略)マツダ本社前を通ってZoom-Zoomスタジアム前を通って目指すは中区の広島城。原爆ドームとか平和公園は修学旅行で連れていかれたけど、広島城って登ったことないんだよね。
広島城
広島城はナビに入れれば出てくるんだろうけど、駐車場がよく分かりません。
御堀を一周してNTT前から車を突っ込んだら、警備員さんに止められまして「中央駐車場に停めてください」と地図を渡されました。
広島城からバリ近の中央地下駐車場。CかDブロックに停めると出口が近いのでお薦めです。駐車場から少し歩いて御堀を渡って広島城に入城しました。
近代的なビルヂングと御堀のアンマッチが良いじゃないですか。
入場して正面の階段に城内の案内図がありました。本丸は右上の端みたいですね。メインディッシュは最後に取っておいて、まずは左端の二の丸に向かうことにします。
広島城二の丸
写真の石垣の角っこのところに元々は中御門という立派な門があったらしいです。1945の原爆投下で焼けちゃったみたいです。
看板によれば、基礎石が赤く変色してひび割れてるのも原爆の熱のせいだそうです。煉瓦みたいになってるな。怖すぎ。
お堀は平城の特徴ですが、広島城の二の丸は御堀の中の出島みたいになっています。平城にしてもこんなのは珍しいんじゃないですかね。
二の丸にはいくつかの櫓(やぐら)がありますが、いったん出島から出て表御門を撮影しときました。この橋は御門橋と呼ばれ馬出しに使われていたとのことです。もちろんこの橋も門も原爆で焼けたので再建されたものです。この門の二階の窓を覚えておいてください。後で窓から橋を見ます。
さて、二の丸には御堀沿いに平櫓、多聞櫓、太鼓櫓があります。あ、櫓は「やぐら」と読みます。外からの敵を見張ったりする建物です。こちら3つの櫓も復元です。復元ですが木造でとてもいい感じなんです。いずれも無料公開中。これは行くしかないでしょ。
まずは表御門から。
梁を見てすごいなと思うようになったのは、やっぱり姫路城の影響が大きい気がします。
表御門階上から御門橋を見る。先ほどまで橋から見上げていたわけですが、今は逆に門から見下ろしているわけです。表御門には石落としみたいなのも再現してありました。ははー。こうやって敵を排除してたわけですね。
少し戻って表御門の続きの平櫓。
木の作りと畳の感じがいいじゃないですか。再建ってことで安心して畳にも登れますしなんかいい香りがする。
次の多聞櫓も平櫓の続きですがこちらは長い廊下という感じ。廊下の左右に展示物が置かれてまして、さながら和風博物館といった風情ですな。個人的には県道の道場を思い出させました。
廊下の途中に、しゃちほこの展示。おい。広島のしゃちほこは鯉じゃないのかい?
そして廊下の突き当りが太鼓櫓です。
太鼓櫓って外から見ると二階がめっちゃ良い感じなんすよ。だけど残念ながら上がらせてもらえないようです。
表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓のいずれも木造の素晴らしい建物でした。
外に出てきて再び表御門。後で広島城の本丸も出てきますが僕的には二の丸がお薦めです。無料だからとかじゃなく木造が本当に気持ちいいんですもん。
畳とか長い廊下とか足の裏がめっちゃ喜んでましたよ。
広島城本丸
(護国神社などは端折りまして)やってきました広島城。ちょいと小ぶりの天守ですが外壁の焼き板がいい感じで期待させます。本丸の観覧券は370円。月曜でも開いてるのが素晴らしいじゃないですか。
福山城さん見習ったほうがいいっすよ。
広島城の築城は安土桃山時代。毛利輝元によるものです。毛利輝元は、戦国時代後期から江戸前期にかけての大名で父は毛利隆元。父よりも祖父が毛利元就と言ったほうが通りが良いでしょう。早くに父を亡くした輝元は祖父元就と共に中国地方一帯を治めるようになります。
本丸内に毛利氏が台頭してきた時代の説明看板がありましたので書き写しておきます。
(前略)元就の代となって、尼子氏と大内氏との勢力の狭間で、郡山城を中心に巧みに勢力を伸ばし、弘治元年(1555)厳島合戦で陶晴賢を破った後、急速に中国地方の領有化を進める。
毛利氏の台頭/広島城
写真の人は毛利元就でその下には「勢力の広がり」の地図が示されています。うん。ここに書いてある領地のほとんどは大内からのぶん取りだな。
毛利氏台頭の少し前から話を始めると、西国の覇者と呼ばれた大内氏は広島から福岡、そして近畿の一部を治めていました。なんたって九州に逃れていた前将軍を担いで京にのぼり中央政治にまで進出してた大内家ですから。ところが、やる気のあった爺さんたちの世代から大内義隆に時代が移ると文化振興に力を入れたもんですから、武闘派の家臣陶晴賢は黙っていられない。陶晴賢は義隆を蹴散らしたのち九州から大内義長を連れてきて神輿にかついだのですが、晴賢自身が厳島合戦で敗れると神輿の義長に求心力はなく下関の勝山であっけなく毛利に降参。だまし討ち的に長門で自刃となったのです。ここに西国の覇者大内の系譜は途絶え、毛利は大内の領地をまるっといただきー!ラッキー!となったわけです。
※ 毛利好きな方には申し訳ありませんが、山口市に住んでいるとちょいと大内贔屓になっちゃいますのでそういう見方もあるよねと三掛けくらいで聞いといてください。お願いします。
ま、歴史の話はさておき先に進みましょう。
今度はお城の形の話です。お城の種類が絵で示されていたのでここは興味深く拝見しました。城の種類には山城、平山城、平城と3タイプありまして、時代的にも山城、平山城、平城と変わっていきます。
山城というのは攻められにくい山の上にあるタイプでまあ言ってみれば領地の端っこの見張り役ですな。この前行った竹田城なんかがまさにそれに当たりますが、山城は中世に多く造られたので(竹田城には立派な石垣が残っていましたが)大抵くずれた石垣だけが残ってることが多いです。○○城跡なんてそこら中にあるあれです。
次に平山城は小山の上に立ってて山の下に城下町があるというタイプ。午前中に見てきた福山城はかなり近世のものですが形としては代表的な平山城です。きっと岩国城もそうかな。
そしてお待たせしました。広島城といえば平城。もうお分かりのように平地に建っていまして周りに御堀があるタイプです。領土が安堵され戦争が減ってくると山の上で籠城する必要がなくなりますから、平地にお濠や幾重にも塀を立て、その周りに武家を住ませ、その周りに町民を住ませと、円周上に町が形成されていくタイプのお城です。僕の感覚だとこのタイプのお城があるところは今も都会なんすよね。
広島城は見るからに平たんな場所に建てられたお城ですから正に平城。戦時にこんな場所でいいのかって感じもしますが、中州にあるしこんなとこまで攻められないだろって自信の現れでもある気がします。
その他、広島城の天守内には代々の統治に関するボードや、刀・鎧といった展示物がありました。んが、すんません山口県に関係がないと僕的には興味がわきません。割愛させていただきます。
いや、なんでこんなあっさりしてるかというとですね…
戦災で焼失したのも知ってますが、無類の城好きとしては(←嘘です)お城がコンクリ製の博物館だとちょいと興ざめです。福山城も再建と聞いたのでこんな感じなんだろうなあと思うと天守閣に登らなくて良かったのかなと思ったり。やっぱり純粋にお城を愛でるという意味では、戦火を逃れた姫路城や松江城が楽しいですね。いやもちろん近代の手は入ってるでしょうけれども。うまく隠してありますし。
広島にはたくさん外国の方が来られてましたから、同じお城を見るなら木造で長くて太い梁を見ていただきたいなあと思ったりします。これは単なる否定じゃなく「戦争はこんなに素晴らしい文化を壊したんだよ」というメッセージを込めて、他のお城と連携したツアーなんかがあると良いのになーと素直に感じた次第。
生意気だったらすみません。
天守閣の最上階にやってきました。鉄筋だあ何だと小難しいことを言いましたが、最上階にやってくると気分が上がります。馬鹿と煙は高いところが好きってね。まずは景色がいい。
広島城の天守閣は5階建てで広島市内の街並みを一望することができます。最上階は外側をグルっと回れるようになってるんですよ。これは素晴らしいじゃないっすか!
真ん中右端に見える丸い頭。ズームで手が震えて写真中央には納まりませんでしたが原爆ドームも捉えました。目視だともっとハッキリ見えるんです。
安土桃山と昭和と現代が共存する街、広島。
最上階でしばらく街に見惚れてました。
おまけの岩国城
広島まで戻ると岩国なんてすぐなもんで、岩国城まで下道を走っちゃいました。ついでに岩国城もと思ったのですが、夕陽で分かるように時間的に厳しくなったので玖珂からは高速でGo Back Home。
僕ね、ここ一ヶ月で竹田城・姫路城・福山城・広島城を見てきたんすよ。別に城好きってわけでもないんですけど。でも短期間で見て回ったからこそ、中世から近世にかけての城の造り方の変遷とか当時のお城と再建したお城の違いとか、歴史的建造物としてのお城の見せ方、街の人の誇り、街づくりなんていったそれぞれの地域色が見えたような、そんな気がします。
数を見るってのは意外に大事かな。岡山城も残ってるんだけど次は四国を回りたいな。
お薦めのお城を教えてください。